前回は千年間の統治期間に入り、ヨハネの黙示録20章4節後半で彼らは(十四万四千人)は生きかえってキリストと共に千年の間、支配したとある。要するに、これが5.6節で言われている「第一の復活」のことであるというところまで話すことができた。
今回は7節から10節の部分を一旦とばし、11節か
ら15節までの部分を朗読してみる。
11節から解説していく。
使徒ヨハネは千年間の統治期間のスタートの別の場面の幻をみる。千年間の統治期間のスタートの別の場面の幻です。ヨハネは大きな白い御座の幻を見ます。そして、そこにヤハウェがおられる様子を見る。それから天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなくなったと……聖書の中では、イザヤ書65章、ヨハネの黙示録21章、ペテロの第二の手紙3章で新しい天と新しい地について言及している。つまり、悪魔サタンが築きあげてきたものすべてが、ハルマゲドン後にはあとかたもなくなってしまったということ。そして次に
12節をみると
死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えたと……
ヨハネはこのような幻をみる。ここで大いなる者、そして小さき者とあるが、色んな解釈がある。一言で言うならば、どのような立場の人であってもということ。そのなかには、使徒行伝24章15節の聖句に書かれているように正しい者も正しくない者もいるということ。ここでいっている、正しい者、正しくない者の基準に関しては、前回の動画で説明してある。つまり、正しい者というのは、死ぬまでヤハウェの義の基準に従い、ヤハウェに選別されていて、尚且つ、知的な希望を持っている者たちのこと。例えば旧約聖書時代の義なる者と呼ばれている人たちの中で、誰が知的な希望を抱いていたのか?それはわからない。一世紀に事実上、キリスト教がおわり、この終末の期間に入るまでに亡くなったヤハウェから見た義なる者たちです。また大きな苦難までに神の義の基準に従いながらも何かしらの災害、あるいは、病気などで亡くなった方々、もちろん生前知的な希望を持っていた人たちです。正しい者には、そうした人々が含まれる。そして、ここでいっている正しくない者というのは、神の義の基準に従う機会のなかった人々のうちの、ヤハウェに記憶されている人々です。それが使徒行伝でいっている正しくない者ということ。
ヨハネの見た幻は、大いなる者も小さき者も共に御座の前に復活させられた時のことが描写されているわけです。
12節の中程をみると、
かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が
開かれた。これは命の書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれたと書いて書かれてあります。
実際に復活してきた人たちのために、かずかずの書物が開かれることになっている。ここでいうかずかずの書物に関しては、この時にならないと詳細はわからない。ただ、もう一つの書物と呼ばれているもの、これは命の書と呼ばれている。つまり、復活してきた人たちは、この書物に書かれてある事柄に従うならば、命を得ることになるでしょう。そして、仮に従いたくないと思われる人たちは、自由に自分の存在を無くしてもらうという選択をすることもできる。つまり、自由意思で決定すればいいということ。
13節を考える。意味深なことが書いてある。
この中を見ると、海そして死また黄泉(よみ)という3つのワードがでてくる。この海と訳されているギリシャ語は、文字通りの海を意味する語が使われている。海はその中にいる死人を出しと書かれてあるのは、海に関連して亡くなった死者のこと。その死人を出すといっている。死も黄泉(よみ)もその中にいる死人を出しと書いてある。これは先程の海に関連して亡くなった人以外のすべての死者を出すといっている。
では、なぜここでわざわざ海と死という2つのワードに分けてかいてあるのか?
実際、歴史を通じで海に関連した死者の数というのはどうなのか?海で亡くなった人、海に関連して亡くなれた人というと、色々考えられる。例えば海難事故、海難事故だけでも色んな海難事故があるわけです。普通に海に遊びにいって溺れて亡くなったり、レジャーでサメに襲われたり、また、タイタニック号のような事故もそうである。他にも色々考えられる。海で自殺した人も海に関連した死者ですよね?また海で戦死した人もそうです。陸にいた人でも、地震が起きて津波で流されて亡くなった人、これも海に関連した死者に含められるでしょう。また国によっては、海に埋葬されるというのもある。歴史を通じてどれだけあるのか?ということ。例えば国や地域によっては、住民のほとんどが海上で生活しているところも多い。海の上で仕事をしているという人なども含めると陸で生活している我々はあまり把握していないだけで、海上で生活している人々は、実は思っている以上に多い。ということは、必然的に海に関連して命を落とされる方の数も相当多くいるとかんがえられるのではないか?そう考えると、ここで海というワードが使われている理由が読み取れると思う。それ以外の死者の数も相当数いるというのはいうまでもありません。しかし、先程もいったように我々が知らない、つまり、把握していないだけで海に関連した死者の数はけして少なくない。
海はその中にいる死人を出し……というのは、歴史を通じてこれまで海に関連して亡くなった大勢の人々を出す、つまり、復活させるといっている。少し話を戻すが、ここでいっている海と死です。海と死というのは両方とも黄泉(よみ)が関係しているということ。では補足情報としてもう少し海について考えてみたいと思う。ここでいっている海と黄泉が関係しているという聖書的根拠をヨナ書からみてみる。
ヨナ書2章特に2節。ヨナ書を見るとわかりますが、ヨナは、魚に飲み込まれて3日間、魚、つまり、大魚の腹のなかにいたわけです。
2節の部分に書かれているように、ヨナは大魚に飲み込まれた時に、自分の死を予期し、ヤハウェにこう祈っている。
そして5節
水がわたしをめぐって魂にまでおよび……と書かれている。2節でわたしが陰府の腹の中から叫ぶと……
事実上ヨナはそのように祈った後、大魚の腹の中で亡くなったわけです。ここでヨナは大魚の腹の中で、なんとか生きていて、大魚の腹の中から、生還したのではなく、ヨナがたしかに大魚の腹の中で死んだと言える根拠です。
イエス・キリストが後に、マタイによる福音書12章39.40節で言われた言葉からもわかる。
イエスは自分が処刑されてから、三日三晩の間、死んでいること、つまり、陰府のことですが、そのことをヨナが大魚に飲み込まれ、死んで三日三晩大魚の腹の中にいたことに例えてそれを預言者ヨナのしるしといっている。ですから逆に言えば、イエスが三日三晩死んでいたように、ヨナもたしかにその間死んでいたということ。
そして3日の後、10節にあるように、主は魚にお命じになったので、魚は、ヨナを陸に吐き出した。このことに関する細かな詳細は、ユダヤの伝承に書かれてある。
ただ、一つ言えることは、ヨナは確かにそのとき死んだということ。つまり、海の中で死んだわけです。それでヨナは、自分の死に場所である海と陰府を結びつけて話しているということ。つまり、ヨナは海に関連して死んだ者の一人になったということ。(聖書中で)
そして実際に大魚の腹の中で死んでいたヨナを、ヤハウェは復活させ、大魚の口から吐き出させた。要するに、海から死者を出したという預言的な実例を聖書中に残されたということ。
ヨハネの黙示録20章にはなしをもどす。
13節にかかれてあったように、歴史を通じて海に関連して命を落とされた方、大勢のそうした人々が復活してくるということをここではいっているということ。そして次に死も黄泉もその中にいる死人を出し……とあるこれは海以外の場所や様々な状況下で亡くなった人々も復活してくるといっている。
ここをまとめると、この13節は次のように解説するとわかりやすいかもしれない。
海と黄泉はその中の死人を出し、死と黄泉もその中にいる死人を出し……ということ。実際に外国語の聖書の中には、わかりやすいようにそのように意訳されている聖書もある。要するにここで言いたいことは、正しい者も正しくない者も例外なくヤハウェに記憶されている者たちが、復活してくるということ。でも中には、せっかく復活させられても、自分の命を自ら放棄する者も出てくることでしょう。ただもう一つ言っておく。過去にヤハウェからの裁きを受けた者たち、例えば、ノアの大洪水、ソドムとゴモラで滅ぼされた者たち、イエス・キリストを十字架の死においやった張本人たち。そういった者たちは当然復活してくることはないでしょう。
ヨハネの黙示録の前半部分に戻って20章5節を見てください。5節はどういう意味なのか?
復活は、千年間の統治期間が始まった直後に開始される。4節の後半からを見ると……そして5節で……となっている
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5節のそれ以外の死人の「それ以外の」というのは、誰と対比させて言っているのか?
4節後半の「彼ら」これは十四万四千人のことだが、それらの者たちは、この時点でもう既に不朽不滅の体を身につけている。つまり、この時点で、もう既に十四万四千人は、完全な者となって生まれ変わっているということ。それに対して、知的な選別者たち、要するに、ハルマゲドンを通過した知的な選別者たち、そしてそのあとに生まれてくるであろう子どもたち、また、復活してくる大勢の人たちは、ここの時点ではまだ完全ではない。では、それらの人々はいつ完全になるのか?
まずこの地上組の人々は、千年の期間をかけて、徐々に完全へと引き上げられていくということ。もちろん、自動的にそれらの人たちが、完全に近づいていくわけではない。このことはヨハネの黙示録22章1.2節に次のようにかかれてある。
つまり、ここに書かれてあるように、象徴的な意味で、命の水の川の両側にはえている木の実、12種の実として表されている神、ヤハウェ。そして小羊イエス・キリストともっと厳密に言うなら、十四万四千人から与えられるであろう身体的、精神的、霊的その他の命を完全性へと引き上げるための全ての備えです。その備えを定期的に取り入れ続けなければ自動的に完全性へと引き上げられ
ていくわけではない。でも、その備えを取り入れ続けていく者たちは、千年間の統治期間が終わろうとしている頃には、今では想像もつかないくらい完全性へと引き上げられていることでしょう。ただし、そのような備えを定期的に取り入れていたとしても、自動的に完全な人間になれるわけではない。完全な人間になるためには、結局はヤハウェに再創造されなければならない。そのことは、押さえておいてほしい。
地上組の人々は、千年間が終わった後に再創造されて、完全な人間に生まれ変わる。つまり、千年が終わるまではこの5節の表現を使うならば、ヤハウェの見地からすると、ある意味まだ死人。ですから、それ以外の死人は、千年の期間が終わるまで生きかえらなかったとかかれてある。十四万四千人はもうすでに新しく生まれ変わっているのに対して地上組の人たちは千年の木終わるまで新しく生まれ変わルコとはできない。つまり、ヤハウェの検知からすれば、まだ死人ということ。
話を戻す。千年の間、そこには悪魔はいない。
活動出来ないように閉じ込められていますから。
そしてどうしてもさ自分の存在を否定したいひと、そのような人は、その旨をヤハウェに伝えたらいいだけ。善良な人々に悪影響を及ぼすものはいない。それだけではない。6節の後半をみると、
彼ら=十四万四千人は神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配すると書かれてある。祭司というのは簡単に言うと、教育者です。要するにキリストと十四万四千人はヤハウェに代わって、地上組の人たちを教育していくわけです。ですから、これらのことを考えてみるとわかると思うが、はるの直後、つまり、千年間の統治期間が始まったすぐの時よりも、百年後、五百年後と経過し、そして999年後また999年目のあと1日で千年というその日。どうでしょう。先ほど述べた様々な要素を考えると、
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普通に考えたら心身共に完全体で、申し分のない状態。喜びや感謝であふれてくるでしょう。
だだ、7.8節をみると
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千年の期間がおわると、悪魔サタンは解放される。どうなるんでしょう?それらの人々が完全になった直後、悪魔サタンは地の四方にいる諸国民、ゴグ、マゴグを惑わし、戦いのために召集する。そして、その数は、海の砂のように多いとある。ここに出てくるゴグ、マゴグ。これは千年の間、完全な者へと引き上げられ、最後に完全な者に再創造された諸国民と書かれてありますが、そのような諸国民のある者たちです。つまり、ゴグ、マゴグというのは、一言で言うなら、その時に悪魔サタンに惑わされるものたちを表している。残念なことに、海の砂のような数のような人たちが、この時、悪魔に惑わされて、悪魔の側についてしまう。そして、それ以外のヤハウェの側にしっかりついているものたちに、戦いを挑んでくるんです。でも、もうこのときは、地上組の人々は戦う必要はありません。
9節後半をみると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽くした、つまり、小羊、イエス・キリストと十四万四千人による裁きの火が投下される。さらに10節をみると、彼らを惑わした悪魔が、火と硫黄との池に投げ込まれたと書かれているように、とうとう悪魔はここで完全に滅ぼされるということです。
でも、聖書の預言はこれで終わりではありません。十四万四千人には、まだ行わなければならないことがあります。
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それに伴って十四万四千人には、どんな使命が与えられているのでしょうか?もちろん指名だけではありません。十四万四千人には特別な報いそして希望が差し伸べられています。今の不完全な思考で想像するのは不可能です。そのとき、実際に体験しないと……ということです。
今回の解説はある箇所に関して、よそ様の団体様と同じような解釈のものもあります。しかし、ある箇所に関しては、全く違うもの。このことだけは言っておきたいとおもう。
では、次回いよいよ完結編です。