2023年の始まり
2023年が始まりました(^-^)
世界情勢をみると……めまぐるしく変化している日々。
1日1日を大切に、日々努力しながら、前に進められたらなと思っています。
悪魔サタンルシファーと戦う方法(1)
大きな苦難に突入後、物理的な意味でまた、霊的な意味においても、牧者希望者あるいは、選別者の方々は、戦わなくてはなりません。ただ、ハルマゲドンのあとは、イザヤ書2章4節の後半を見ていただくと、そのイザヤ書の言葉を借りるならば、
彼らはもはや戦いのことを学ばないと、そして5
節で
と書いてあるように、ハルマゲドン後は、全ての選別者は、もはや戦いを学ばないとかいてあるんです。そして5節にかいてあるように、ハルマゲドン後は、主の光、つまりヤハウェからの導きに従って地的希望者であったとしても、高次元希望者であったとしても、その導きにしたがって歩むということです。でも、大きな苦難時は、物理的にも霊的な面においても、戦わなければならない。
今回は邪悪な霊の勢力、特に悪魔サタンルシファーです。彼らは霊者なので、我々は霊者と物理的には戦うことはできない。もちろん、牧者希望者の方々とか選別者の方々というのは、大きな苦難までは、保護はされています。基本的には。でも慢心してしまったり、警戒を緩めてしまうと、やはり危険なので、いまでも現代法治国家の危機管理能力に基づいて護身を想定するのはとうぜんのこと。ただ、今回は主題にあるように、悪魔と戦う方法です。それを今回は説明したいとおもう。
このように書かれてあります。
悪魔は堕天使つまり霊者ですから、もちろん、物理的な武器では戦えない。それで、神から与えられた武具がどうしても必要である。
12節をみると、そのことが詳しく書いてあります。
12節をざっと見ると、人間ではたちうちできないというのはわかると思う。天上というのは、高次元のことではない。たしかに、大バビロンがこの世の中を掌握していたとしても、その大バビロンを操っているのが、悪魔サタンルシファーだということです。この中を見ると我々が大バビロンを暴露したところで、何も意味はない。それよりも、その大バビロンを陰で操っている悪魔サタンルシファーと霊的な戦いをしないといけないということ。ただ悪魔サタンルシファーというと、高次元にいたケルブですので、そうした強力な霊者とどのようにして戦えうのかということだが、何も心配することはありません。13節の中程を見ると、その悪魔サタンルシファーであっても、十分に抵抗できること、また、完全に勝ち抜いてとも書いてある。その神からの武具さえしっかり装着していれば、悪魔から自分を守れる。もちろん私たち人間はルシファーを滅ぼすことはできませんが、完全に勝ち抜いてと書いてある。つまり、防衛はできる、何度も退けることはできるということ。とくに2人の証人シリーズで詳しく説明したように悪霊たちは、実際に滅ぼすことも可能。
話はかわるが、今後、大きな苦難というだけあって、完全無法地帯の地獄絵図です。その期間、持ちこたえることができるように、皆さんに準備して頂いてきた。一旦大きな苦難に突入しまったら、あとは選別者の方々は、自分が準備してきたもので、その期間しのぐだけでいい。ただ問題なのは、その大きな苦難までの期間である。大きな苦難までの残された期間が1番問題。邪悪な霊者、とくに、悪魔サタンルシファーは、できれば選別者を脱落させるために、あらゆる手を尽くしてくる。大きな苦難が近づけば近づくほど、いろんな罠を仕掛けてくるのではないでしょうか。ですから、特に悪魔サタンルシファーに対して、完全に勝ち抜き、抵抗し続けるために、ヤハウェが備えてくださった武具がどうしても必要となってくる。では、ヤハウェからの霊的な武具とはどのようなものなのか?
14節以降で説明されている。
、
真理の帯を腰にしめ、さらに正義の胸あて、そして、平和の福音の備えを足に履きとある。そのうえに信仰の盾を手にとるようにと……なぜかと言うとそれをもって悪しきもののはなつ火の矢をけすことができるとかいてある。ここで述べられている信仰の盾とは何なのか?また悪しきもの、つまり、邪悪な霊者、とくに悪魔サタンルシファーから放たれてくる火の矢とは?また、救のかぶとをかぶるようにとかいてある。そして、御霊のつるぎこれらを身につけるようにということ。
そして18節をみると、それにプラスアルファ、プライヤーです。では、次回からこれら一つ一つの意味について解説していく。
聖書を正しく理解する為の助け(5)
マタイによる福音書5章10〜12節は普通に理解できる部分ですので、また時間があれば解説させてもらうが、今回は飛ばす。
今回は13節は解説する。
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あなたがたは地の塩であるとありますが、ここを理解するためには、まず塩というものがバイブルの中で何を象徴しているのか?ということ、そして、当時の塩がどういうものだったのか、知る必要がある。
でないと、この部分だけを読んでも意味がわからない。日本人の感覚からすると、塩の効き目がなくなる⁉️
役に立たず外に捨てられて人々にふみつけられる⁉️どういうこと?ってなる。
塩=塩化ナトリウムというものが、塩気がなくなるということは本体だけが残って、塩味だけなくなる?ということはありませんから、塩気、味がなくなると言うことは、残るものは何もない、なくなってしまうとうこと。それで、ある聖書学者もこう述べている。塩気はこの物質の本質そのものである。ですから、塩気がなくなるなら、残るものは何もないということ。でもここでは塩気がなくなると外に捨てられるとある。これはどういうことなのか⁉️
当時のユダヤ地方で使われていた塩がどういうものだったのかまず知る必要がある。
それがわかるとこの聖句の意味もわかると思う。
ここで言われている当時の塩は、植物質や土質の物質と混ざり合っていた塩で、そのような不純物を相当量含んでいたものだったらしい。当時も今の我々と同じように、味付けとして食用に使う為の出来るだけ精製された塩もあった。いわゆる調味料としての塩です。しかし、ここでイエスがご自分の弟子たちに対し、あなたがたは地の塩であると述べたとき、どういった塩に言及したのか⁉️
当時、ヤハウェの神殿の祭壇の近くに多量の塩を置くようにと規定があった。そのとき、使用されたのが食用の塩ではなく、先ほど述べた不純物の混ざった塩を用いたということ。もうわかると思うが、雨などが降ると、塩は溶けて無くなってしまう。でもその中の塩以外の不純物はそのまま残る。つまり、塩気のなくなったただの残りの不純物ということ。そういうものは捨てる以外にどうしょうもないですよね?そのことを言っている。
当時のイスラエル人は精製された食用の、つまり、味付け用の塩と何かを保存する為の塩とを使い分けていた。食材を保存するときや、祭壇の脇に盛り上げてあった塩は、腐敗を防ぐ防腐剤の役割としてこのような塩を使っていたわけです。
当時は今のような精製技術が発達していなかったものですから、食用の塩は、大変貴重だった。
繰り返すが、物を腐敗させないように使ったり、祭壇の脇に置くものとしては、そのような塩を使っていたということ。土というと、汚いイメージがあるが、小さい砂利などが混じった砂よりも少し大きめの砂利のようなものが混じった塩をイメージしてください。このことを念頭に置いてその部分を読んでみたいと思う
マタイによる福音書5章13節
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とりあえず塩に関してはわかっていただけたとおもう。
次にイエスが弟子たちに言わんとしていたこと。
あなたがたは、地の塩だといっている。つまり、人類全体の中での塩なんだと。ここでは何が言いたいのかというと、この悪魔の支配する世はもう腐敗しまくっているということです。ただ、イエスの弟子になりたい人はそのような腐敗した世にあって、腐敗を防ぐ影響力をまず自分自身が身につけなければならないといっている。そうなってくると、今までずっといってきたこと。基盤となるのはヤハウェの霊です。その霊を基盤として自分自身が霊的な塩にならなければならないということ。そして、今後は腐敗を防ぐ影響力を他の人に及ぼすという点で霊的な進歩、霊的に進歩しなければならないということを示唆している。
まず、自分がヤハウェから見て、また、イエス・キリストから見て霊的な塩になることができれば、どれだけ悪魔の世が腐っていたとしても、自分が悪魔の世によって腐敗させられることもないでしょうし、腐敗を防ぐ影響力を他の人に及ぼすことができたら、もう本物。
ただ、13節をみると、もし、塩のききめがなくなったら捨てられる以外にないということ。
イエスは弟子たちに、塩のききめを失わないようにといっている。そして、他の人にも霊的な腐敗、あるいは、道徳的な腐敗を防ぐよう影響力を及ぼせるような人間へと成長するための努力を期待しておられるわけです。ですから、そういう意味であなたがたは地の塩であるといっている。
これまで新しい人格の培い方について何回も話をしてきた。もし、皆様がヤハウェからみてそのような新しい人格を培われているなら、また、今回のイエスが言われた地の塩のような存在になるなら、皆様の身近な人はどう思われるでしょうか?
その変化した皆様を見て、その時点で影響を及ぼしているということ。それで、今度は最も身近な家族も地の塩になれるよう、援助できたら⁉️ということです。
そうなれば、悪魔の世で腐敗を防ぐ影響力を及ぼすことができたと言えるのではないか?
イエス・キリストが望んでいるのは、形だけの集会ごっこではない。
宗教指導者の説教を聞いているだけでは、地の塩にはなれませんし、また、正しい方法も教えてくれるわけではありません。イエス・キリストからあなたがたは本物の地の塩であると言われるように努力していただけたらとおもいます。
聖書を正しく理解する為の助け(4)
今回は『よみ』について簡単に話していけたらと思う。
この『よみ』という言葉は、日本神話におけるいわゆる死者の世界というふうに定義されている。ただ、この日本の神話にでてくる『よみ』という語がバイブルの中で使われているので、かなり読者の間では理解が難しいところとなっている。
まず、この『よみ』と訳されている単語なのですが、旧約聖書の中のヘブライ語のシェオル、そして新約聖書のギリシャ語のハデスである。ですからシェもハデスも意味は同じ。ただ、このヘブライ語のシェオル、ギリシャ語のハデスなんですが、これを日本語に翻訳する際に、妥当な言葉がなかったので、『よみ』という単語に訳されたものと思われる。
それで、興味深いのが口語訳聖書。
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口語訳聖書では黄色い泉と書く『黄泉(よみ)』と陰の府と書く『陰府(よみ)』
この2つが使い分けられている。どのように使い分けられているのかというと、旧約聖書では、『陰府(よみ)』、新約聖書では『黄泉(よみ)』が使われている。でも、新共同訳では『陰府(よみ)』が一貫して使われている。
新改訳聖書では、この部分をシェオルやハデスと訳していたようだが
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2017年の改訂版で、ひらがなの『よみ』というふうに訳し直されたようです。ただ、この言葉をジェームズ王欽定訳では、地獄と訳されている。こうなってくると完全に意味がわからなってしまう。アウト。
そもそも、ジェームズ王欽定訳というこの訳は、有名なウィリアムティンダル訳それもえせのウィリアムティンダル訳を物差しにして訳されたと言われているので、それは仕方ない。もちろん本物のウィリアムティンダル訳というのもある。この世の中に一冊しか存在していないと言われている。大英博物館に今は展示されていないと思う。
ここからは豆知識
創世記からマラキ書までのところでは、先ほど言ったヘブライ語のシェオルという言葉が70カ所以上使われている。そして、新約聖書の中では、ハデスが使われているが、10回しか出てこない。
話を戻す
一般に日本人目線から言うと、よみとやくされている為に、どうしても死後の世界とか、死者の世界というふうにイメージされがちですが、伝道の書9章5.10節ここを見れば一目瞭然。ここでまとめられている。では、口語訳聖書の伝道の書9章5.10節を読んでみたいと思う。
(朗読)
この部分で訳されている『陰府』なのだが、一般に日本人目線で考えられているような死者の世界、死後の世界、そんなものではない。
もしそのような死後の世界があるのなら、伝道の書の9章5節、10節でこのようなこと書いてない。特に5節をみると、死者はもう何事をも知らないとか、もはや報いを受けることもないとか、その記憶に残る事柄さえもついに忘れられると書いてある。10節をみても、その『陰府』にはわざも計略も知識も知恵もないとはっきりかいてある。ようするに日本語で『陰府』と訳されているこのシェオル、ハデスは日本人目線の死後の世界ではなく、完全に意識のない状態を指している。死んだ人は意識がなく存在しなくなるということ。
イエス・キリストも実際には人間としては死にました。ですから、復活するまでの間、この陰府にいたことになっている。では、旧約時代の義人と呼ばれている人、例えば、アブラハム、モーセ、ダビデなど、イエスは復活するまでの間にそう言う人たちと会ってきたのか?となりますよね?
でも、イエスは復活した時、一切そういうことにはふれていない。なぜなら、イエスは亡くなられたとき、全く意識がなく、存在していなかったから。つまり、聖書の中で、死=意識がなくなる=存在しなくなるという意味。
ヘブライ語のシェオルは、ギリシャ語のハデスというのは、日本人感覚でいうような死後のせかいではないということ。
これは補足情報だが、例えば
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使徒行伝2章27節で使徒ペテロは詩編16編10節を引用している。もしよろしければ皆様も比較して読まれて確認してみてください。口語訳聖書の中でよみという語が旧約聖書と新約聖書とで使い分けられている。この部分も読んでみたいと思う。
(朗読)
詩編16編10節
これ実際に見られるとわかると思うがここでは『陰府』が使われている。
使徒行伝2章27節
(朗読)
ここでは『黄泉)』が使われている。
ですから、口語訳聖書ではヘブライ語のシェオルとギリシャ語のハデスという2つの単語を日本語の2つの漢字で使い分けたということがわかるのではないか?
結論
バイブルでは日本人目線で死後の世界というものは存在しないということ。人間は死んだら意識がなくなります。そして存在しなくなる。復活してくるかどうかは、ヤハウェに記憶されることにかかっている。
聖書を正しく理解する為の助け(3)
今回はマタイによる福音書5章9節です
平和を作りだす人々はは幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。
この言葉について考えていきたいと思う。
まず、平和を作りだす人というのは、単に平和主義者とかトラバルメーカーにならなければ良いというそういう簡単な意味ではない。
作りだすという言葉からいえることは、例えば、何かアクションを起こせばそれだけ何某らの問題やトラブルが生じる可能性も高くなる。それで何もせずじっといている、待ちの姿勢でいいのか?というとそういうことでもない。
やはり、作りだすとあるように、自分の方から積極的に何某らの行動を起こすことが関係している。それで、バイブルがいう平和の概念をまず知る必要がある。
ヘブライ語のシャロン、ギリシャ語のエイレイネーには幅広い意味がある。争いがないという意味もある。しかし、特にギリシャ語のエイレイネーに関しては、救いとか和合とか言った概念がある。
マタイによる福音書の5章9節のエイレイネー。争いがないという意味に加えて、救い、和合という意味がある。では、誰に対して争いがないということなのか?誰に対して救いを呼び求めるべきなのか?
誰と和合すべきなのか?結論はヤハウェ。
ここまで話しただけでもここで言っている平和、一般に言われているような平和主義とかトラブルメーカーにならなければよいというものではないとは普通に理解できる。
もう一度マタイによる福音書5章9節にもどる。
平和を作りだす人々はは幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。
ここで神の子と呼ばれるとあります。
何もしないで神の子と呼ばれるなんてそんな上手い話はない。待ちの姿勢でそんなことありえない。
平和というのはどのように作り出せばよいのか?
少し思い出してみてください。
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口語訳では御霊の実、新共同訳では霊の結ぶ実、その中に平和があります。つまり、平和は、霊の結ぶ実の中の一面ということ。霊の結ぶ実ですから、ここで言っている平和を作りだすには、基盤
として、神の霊の力が必要ということ。どうしてもら必要。そして例が働いた結果結ぶ実なので、平和だけを培うというそういうものではない。
霊の結ぶ実=平和を含めた御霊の実全部
関連聖句として
⬇️
ここを読むとその意味がよくわかると思う。
ぜひ読んでみて参考にしてください。
平和の概念の中に、争わないこととありましたが、誰と争わないことなのか?
ヤハウェとの平和な関係を培うためにと考えたら……
1つはヤハウェからみて、忌まわしいものとか、敵とみられたらアウトということ。そうならない為の方法は過去動画で説明してある。
特にイエス・キリストから終末の期間に生きる全ての選別者へのメッセージシリーズ、ルシファー最後の切り札シリーズ、そして高次元へ国籍を移すための準備は着実に進んでいますか?これらのシリーズで説明してある。まだ視聴していない方はその動画も視聴していただければとおもう。
あと、この平和の概念の中に和合というものがあるということだが、その点で
エペソ人への手紙2章14ー18節
もしよろしければこの部分も読んでみてください。ここを簡単に説明すると、ヤハウェはアブラハムのと間で結んだアブラハム契約そして、イスラエル国民との間で結んだ律法契約というものがあった。それで、最初はユダの家系、ユダヤ人に機会を与えられたわけなんです。しかし、この聖書の範囲を読むとわかるが、今ではユダヤ人ではない人たちにも救いの手が差し伸べられているわけなんです。つまり、イエス・キリストの死をもって全ての人がヤハウェとの平和な関係に入るというその道が開かれたということ。もちろん道が開かれたというだけで、入ろうと努めないのに自動的にヤハウェとの平和な関係に入れるわけではない。ここの部分は少し分かりにくい表現になっているが辛抱して話についてきていただきたい。
このエペソ人への手紙2章15節で、彼にあって2つのものを1人の新しいひとに作りかえて平和をきたらせとある、まずこの2つのもの、新共同訳では双方とありますが、これはユダヤ人と非ユダヤ人のこと。要するに全人類のこと。そして、1人の新しいひとにつくりあげというのは、ユダヤ人も非ユダヤ人もない、つまり、垣根を取り除いて1人の新しい人としてつくりあげということ。
14節にあるように、ご自身の肉によって、つまり、イエス・キリストの犠牲によって数々の規定からなっている戒めの律法を廃棄したのである。要するにアブラハム契約もモーセによる律法契約ももう関係ないということ。今はヤハウェからみると、ユダヤ人も非ユダヤ人もないということ。そして15節にはキリストは平和を実現しとあるが、誰との平和でしょうか?ヤハウェとの平和、和解、和睦ということ。
ここまでついてきてくれているでしょうか?
固い霊的食物なのでもう少し辛抱してついてきてください。
1人の新しい人とうのは、文字通りの1人の人のことではない。
ここの表現を使うと両者をひとつの体として、神と和解させと書かれてあります。この両者。ユダヤ人と非ユダヤ人というのは、ヤハウェから見てもう関係ないわけなんです。つまり、全世界の中からひとつの体として神と和解しようとするものを集めるということ。ですから、簡単に言うと、基本的には十四万四千人の高次元希望者のことをいっている。
その根拠となる聖句として
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ここに書かれてあります。12章のこの部分をみるとわかるが、キリストは体でいうと、頭です。ここからわかることは、キリストを通してひとつの体になったということ。ですから、十四万四千人というのは、キリストを頭にしたひとつの集合体、正式な集合体ということ。文字通りの1人のことではなく、キリストのうちに集められたひとりの体、肢体という意味で十四万四千人の高次元希望者のことをいっている。
そして地上を希望する者たちも高次元希望者が揃った後、集まってくるということ。
そしてピリピ人への手紙4章6.7節にあるように
平和をつくりだす人というのは、そのように、ヤハウェと平和な関係になることをなによりも第一にする人のことをいっている。4章6節をみると、何事も思い煩ってはならない。ただことごとに感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよいと書かれてある。ですからそういう人というのは、人知では到底計り知れない神の平安、新共同訳では平和が心と思いを守ってくれるということ。つまり、ヤハウェとの貴重な関係から生じる独特の平和。
そして、ヤハウェはさらに我々に聖霊を与えてくださるんです。聖霊のことは
その聖霊があたえられると、その聖霊は、皆さんの助け主になってくれます。
そうなれば27節にあるようにもうそこには恐れはないということ。ヤハウェとの平和を作り出した人たちには、霊だけでなく聖霊が与えられる。霊だけでもすごいのに、聖霊が与えられるわけですから……
ただ神の子としてこのような特権が与えられるのはヤハウェとの平和な関係を作りだす努力をしている人だけ。
そのような努力をしていないのに聖霊が与えられるということはありません。
聖書を正しく理解する為の助けシリーズ(2)
「憐れみ深いひとたちは幸いである。彼らは憐れ
みを受けるであろう」
ここを考える前に、基本的にバイブルでいう「憐れみ」というものだが、旧約聖書の中に「憐れみ」という言葉がたくさん使われている。ヘブライ語の「憐れみ」という意味だが、基本的には他の人に対する優しい感情で、温かい気持ちになる。または、不利な境遇にあるものへの同情心、または、親切な思いやり、もっと突っ込んでいうならば、自分に弱者を助ける力があった場合、これは誤解しないでほしいのだが、自分に力がないのにまた、知恵もないのにその問題に飛び込んでゆくというのではなく、自分に力や知恵があれば、救済をもたらす。また手助けして少しでも身が軽くなるよう、力や知恵を貸すあるいはゆるすということを包含している。
例えば……
⬇️
「弱者を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる。」
この言葉とも直結している。
そして、ギリシャ語の「憐れみ」なのですが、基本的には同じ意味。ただ、このマタイによる福音書5章7節は2つのギリシャ語が使われている。
先程考えたヘブライ語の基本的な憐れみの意味の中のひとつに、不利な境遇にある者に救済をもたらすというものがあった。
マタイによる福音書5章7節の最初に
「憐れみ深いひとは幸いである」
この部分の憐れみという言葉はギリシャ語の「エレオス」という言葉が使われている。
この「エレオス」というギリシャ語の意味の中に、救済したい相手に対して助けるだけの充分な能力、知恵、力、それらを兼ね備えた上でという意味が含まれている。ですからこういうことである。
困っている人に対して同情心を抱いたり、かわいそうだなぁと思ったりするのは大切なことなのだが、実際に自分の側に充分な能力、知恵、力がなければ、助けようとしても自分もつぶれてしまうこともあるわけなんです。
ですからここで使われている「エレオス」というギリシャ語は、基本的には、憐れみを示す側、示したいと思っている側がまず、充分な知恵や力、その他を兼ね備えるために、努力している者が示す憐れみということ。
例えば、究極の救済策はメッセンジャー。
では、そのようにバイブルの真理を他の人に伝えて、誰かに憐れみを示したいと思ったなら、まずは自分が霊的に成長するということを示唆している。
ですから、7節にある「憐れみ深い人たちは幸いである。」というこの意味は、まず自分が霊的に成長する為に努力すること。もちろんそれは他の人たちを助けてあげたいという他の人たちに対する同情心、それが動機となっており、そのために自分が霊的に成長しなければならないとなっている人のことをいっている。
いわゆる救助隊の隊員になりたい人が、人を助けられるようになるために、まず自分の訓練をするのと同じ。救助隊の隊員は災害時に自分を役立てることができるよう、実際に人を助けられるように自分を訓練していますよね?
でも、一般の人が火災の中に飛び込んでいったら、自分もまきこまれてしまうリスクが高いが、救助隊員は知識も知恵もある。さらに日々自分を訓練している。ですから、ここでいっている「憐れみ深い人」というのは、ただ、かわいそうだなぁという気持ちになるだけではなく、実際に自分はその為に何をしなければならないか、という精神状態、そういう気持ちに動かされて実際に行動にうつしている人のこと。
なので、憐れみ深いという深いという言葉がついている。
そして、後半をみると、彼らは、あわれみを受けるであろう。とある。ここで使われているギリシャ語は、先ほどの「エレオス」とは違う。このギリシャ語は、「スブランクニゾマイ」の変化形が使われている。この語は、字義的には、腸がねじれるという意味がある。よくかわいそうな境遇の人をみたときに、腸がねじれるというこの感情、わかるでしょうか?例えば、そういう不利な境遇にある人が一生懸命に生きている姿をみて、同情心を抱くと共に、頑張れという、また助けたいという感情です。もちろんエレオスにもこのような意味は含まれています。では、先ほどのスプランクニゾマイの変化形とはどのようにちがうのか?
「エレオス」のほうは、同じ助けたいという動機でもそうできるように自分も努力している人が抱く憐れみのこと。霊的な救助隊になれるよう、努力が求められるわけです。
「スプランクニゾマイ」の変化形は、ヤハウェやイエス・キリストが抱く感情。完全なもの。十分に助ける力も能力も備わったものが抱く感情ということ。ですから、さきほどの腸がねじれるという感情を100%発揮できる憐れみのこと。ある意味、ルシファーの世で他の人のために霊的な救助隊になれるよう日々努力している人を見たヤハウェの感情。よく頑張ってくれてるな、という気持ちと実際に最後まで頑張ったものには絶対に助けたるからな。絶対に救ったるからなというヤハウェの感情ということ。
マタイによる福音書5章8節を考えたいと思う。
心の清い人たちは幸いである。彼らは神を見るであろう。とかかれてある。
心の清い人たちとあるが、確かにこの通りです。とりあえずは……
ただ、ここの清いという言葉はいろんな意味がある。誰から見て清いか?もちろんヤハウェから見てということ。ヤハウェから見て清くなるために自分の良心を……です。我々には良心というものがあたえられている。この良心を神の物差しに従って出来るだけ正常に機能させる努力を払わなければいけないということ。そのためには、自分の力だけでは無理。どうしてもヤハウェからの強力な霊の助けが必要。ここを理解するための助けとなる1つの聖句
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ここでは、バプテスマつまり、洗礼のことがかかれてある。バプテスマの真の意味は、宗教団体の中で行われているような形だけの儀式ではない。また、自分の体の肉的あるいは、霊的な汚れをのぞくことではなく、とあるが、これは、汚れを除くことは当然ということ。それだけではなくという意味。
新共同訳では、神に正しい良心を願い求めることと訳されている。口語訳では明らかな良心を神にねがい求めることと訳されている。つまりヤハウェに自分の良心を正常に機能させてくださいと、そのために霊を与えてくださいと願い求める必要があるわけです。そのために強力な霊を願い求めるということ。あとはバイブルの物差しを一つでも多く取り入れて努力するということ。さらに、このマタイによる福音書5章8節の清いというこの言葉、ここは白さ、白いという意味もある。では、ヤハウェからみて白くなるということは、どいうことなのか?手がかりとなる聖句は
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大きな苦難を通過したものたちのことをいっているが、なんとかかれてあるか?
彼らは、大きな苦難を通ってきたもので、その衣を子羊の血で洗って白くしたのである。
衣というのは、その人自身全てを表している。その衣を子羊の血で洗って白くしたというのは、イエス・キリストの贖いの犠牲に信仰を働かせて、つまり、信仰というのは、行動が伴っていますから、最後までヤハウェ及びイエス・キリストへの信仰を全うさせることが関係している。ですから、そこで、少しでも疑念が生じたら白くなりません。信仰が関係しているので。では、もう一度マタイによる福音書の5章8節を見ていただくと
そのような人たちは、どうなるとかかれてあるでしょうか?彼らは神を見るであろう。と書いてある。もちろん今現在でもそのように努力している人たちはヤハウェを身近に感じる、あるいは、感覚的に知覚するという意味で、神を見ることはできるます。しかし将来、現実的に直にヤハウェを見ることができるということを言っている。
このマタイによる福音書5章7節、8節はさらっと読んで理解できるものではない。
次回は9節から考えたいと思う。