聖書を正しく理解する為の助けシリーズ(2)

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https://youtu.be/U2dYryWIyfI

 


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「憐れみ深いひとたちは幸いである。彼らは憐れ

みを受けるであろう」

 

ここを考える前に、基本的にバイブルでいう「憐れみ」というものだが、旧約聖書の中に「憐れみ」という言葉がたくさん使われている。ヘブライ語の「憐れみ」という意味だが、基本的には他の人に対する優しい感情で、温かい気持ちになる。または、不利な境遇にあるものへの同情心、または、親切な思いやり、もっと突っ込んでいうならば、自分に弱者を助ける力があった場合、これは誤解しないでほしいのだが、自分に力がないのにまた、知恵もないのにその問題に飛び込んでゆくというのではなく、自分に力や知恵があれば、救済をもたらす。また手助けして少しでも身が軽くなるよう、力や知恵を貸すあるいはゆるすということを包含している。

例えば……

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「弱者を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる。」

この言葉とも直結している。

そして、ギリシャ語の「憐れみ」なのですが、基本的には同じ意味。ただ、このマタイによる福音書5章7節は2つのギリシャ語が使われている。

先程考えたヘブライ語の基本的な憐れみの意味の中のひとつに、不利な境遇にある者に救済をもたらすというものがあった。

マタイによる福音書5章7節の最初に

「憐れみ深いひとは幸いである」

この部分の憐れみという言葉はギリシャ語の「エレオス」という言葉が使われている。

この「エレオス」というギリシャ語の意味の中に、救済したい相手に対して助けるだけの充分な能力、知恵、力、それらを兼ね備えた上でという意味が含まれている。ですからこういうことである。

困っている人に対して同情心を抱いたり、かわいそうだなぁと思ったりするのは大切なことなのだが、実際に自分の側に充分な能力、知恵、力がなければ、助けようとしても自分もつぶれてしまうこともあるわけなんです。

ですからここで使われている「エレオス」というギリシャ語は、基本的には、憐れみを示す側、示したいと思っている側がまず、充分な知恵や力、その他を兼ね備えるために、努力している者が示す憐れみということ。

例えば、究極の救済策はメッセンジャー

では、そのようにバイブルの真理を他の人に伝えて、誰かに憐れみを示したいと思ったなら、まずは自分が霊的に成長するということを示唆している。

ですから、7節にある「憐れみ深い人たちは幸いである。」というこの意味は、まず自分が霊的に成長する為に努力すること。もちろんそれは他の人たちを助けてあげたいという他の人たちに対する同情心、それが動機となっており、そのために自分が霊的に成長しなければならないとなっている人のことをいっている。

いわゆる救助隊の隊員になりたい人が、人を助けられるようになるために、まず自分の訓練をするのと同じ。救助隊の隊員は災害時に自分を役立てることができるよう、実際に人を助けられるように自分を訓練していますよね?

でも、一般の人が火災の中に飛び込んでいったら、自分もまきこまれてしまうリスクが高いが、救助隊員は知識も知恵もある。さらに日々自分を訓練している。ですから、ここでいっている「憐れみ深い人」というのは、ただ、かわいそうだなぁという気持ちになるだけではなく、実際に自分はその為に何をしなければならないか、という精神状態、そういう気持ちに動かされて実際に行動にうつしている人のこと。

なので、憐れみ深いという深いという言葉がついている。

そして、後半をみると、彼らは、あわれみを受けるであろう。とある。ここで使われているギリシャ語は、先ほどの「エレオス」とは違う。このギリシャ語は、「スブランクニゾマイ」の変化形が使われている。この語は、字義的には、腸がねじれるという意味がある。よくかわいそうな境遇の人をみたときに、腸がねじれるというこの感情、わかるでしょうか?例えば、そういう不利な境遇にある人が一生懸命に生きている姿をみて、同情心を抱くと共に、頑張れという、また助けたいという感情です。もちろんエレオスにもこのような意味は含まれています。では、先ほどのスプランクニゾマイの変化形とはどのようにちがうのか?
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「エレオス」のほうは、同じ助けたいという動機でもそうできるように自分も努力している人が抱く憐れみのこと。霊的な救助隊になれるよう、努力が求められるわけです。

「スプランクニゾマイ」の変化形は、ヤハウェイエス・キリストが抱く感情。完全なもの。十分に助ける力も能力も備わったものが抱く感情ということ。ですから、さきほどの腸がねじれるという感情を100%発揮できる憐れみのこと。ある意味、ルシファーの世で他の人のために霊的な救助隊になれるよう日々努力している人を見たヤハウェの感情。よく頑張ってくれてるな、という気持ちと実際に最後まで頑張ったものには絶対に助けたるからな。絶対に救ったるからなというヤハウェの感情ということ。

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マタイによる福音書5章8節を考えたいと思う。

心の清い人たちは幸いである。彼らは神を見るであろう。とかかれてある。

心の清い人たちとあるが、確かにこの通りです。とりあえずは……

ただ、ここの清いという言葉はいろんな意味がある。誰から見て清いか?もちろんヤハウェから見てということ。ヤハウェから見て清くなるために自分の良心を……です。我々には良心というものがあたえられている。この良心を神の物差しに従って出来るだけ正常に機能させる努力を払わなければいけないということ。そのためには、自分の力だけでは無理。どうしてもヤハウェからの強力な霊の助けが必要。ここを理解するための助けとなる1つの聖句

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ここでは、バプテスマつまり、洗礼のことがかかれてある。バプテスマの真の意味は、宗教団体の中で行われているような形だけの儀式ではない。また、自分の体の肉的あるいは、霊的な汚れをのぞくことではなく、とあるが、これは、汚れを除くことは当然ということ。それだけではなくという意味。

新共同訳では、神に正しい良心を願い求めることと訳されている。口語訳では明らかな良心を神にねがい求めることと訳されている。つまりヤハウェに自分の良心を正常に機能させてくださいと、そのために霊を与えてくださいと願い求める必要があるわけです。そのために強力な霊を願い求めるということ。あとはバイブルの物差しを一つでも多く取り入れて努力するということ。さらに、このマタイによる福音書5章8節の清いというこの言葉、ここは白さ、白いという意味もある。では、ヤハウェからみて白くなるということは、どいうことなのか?手がかりとなる聖句は

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大きな苦難を通過したものたちのことをいっているが、なんとかかれてあるか?

彼らは、大きな苦難を通ってきたもので、その衣を子羊の血で洗って白くしたのである。

衣というのは、その人自身全てを表している。その衣を子羊の血で洗って白くしたというのは、イエス・キリストの贖いの犠牲に信仰を働かせて、つまり、信仰というのは、行動が伴っていますから、最後までヤハウェ及びイエス・キリストへの信仰を全うさせることが関係している。ですから、そこで、少しでも疑念が生じたら白くなりません。信仰が関係しているので。では、もう一度マタイによる福音書の5章8節を見ていただくと

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そのような人たちは、どうなるとかかれてあるでしょうか?彼らは神を見るであろう。と書いてある。もちろん今現在でもそのように努力している人たちはヤハウェを身近に感じる、あるいは、感覚的に知覚するという意味で、神を見ることはできるます。しかし将来、現実的に直にヤハウェを見ることができるということを言っている。

 

このマタイによる福音書5章7節、8節はさらっと読んで理解できるものではない。

次回は9節から考えたいと思う。