《シオンの山・生ける神の都・天のエルサレム》(20)

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https://youtu.be/XzNubj7EY1I


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1節をみると、ヨハネは一つのまぼろしを見ます。最初に小羊であるイエス・キリストがシオンの山に立っているのを見る。続いて十四万四千人のものたちが、子羊と共にいる様子をみたわけです。そして、十四万四千人の額には子羊の名と、その父の名とがしるされていた。

ここで、シオンという言葉がでてくる。

ここでざっと説明

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シオンとは、エルサレムという町の中にあったエブス人の要塞の名であった。

のちに、ダビデ王が要塞のあったエブス人の町を攻め取った。その後その町はダビデの町とも呼ばれるようになった。

のちに、シオンというのは、その要塞だけではなく、その町そのものを指しても用いられるようになった。さらに、シオンというのは、ソロモン神殿がそこに建てられたことによって、シオンという言葉が、神殿とか神殿付近を指して使われるようになっていった。そういった流れで、後々シオンというこの言葉は、エルサレムユダヤ地方、イスラエル人を指す時にも使われるようになっていった。
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シオンというのは、聖書中では、神の都を指して用いられるときもあれば、神の民を指して用いられることもあり、幅広く使われている言葉でもある。

新約聖書をみると、霊的な意味で、神の御国、天のエルサレムを指して用いられたりしている。

それ以外の意味でも用いられている時もある。

これが、シオンという言葉の由来の簡単な説明。

 

シオンに関して次のように預言されている。
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基本的にはイエス・キリストのことを指して預言

的に表している部分。

6節の私=ヤハウェ  王=イエス・キリスト

ここでは、私の聖なる山、シオンに王を立てたと言っている。問題は7節以降。

7節にここで言っている私=イエス・キリスト

ただ、前にも言ったが聖書は一ヶ所あるいは一部分で解釈できるところもあれば、できないところもある。7節以降の私というのは基本的にはイエス・キリストのことを言っている。でもイエス・キリストだけと解釈すると、いろんな矛盾が生じる。詩編2編に関してはこの部分だけでは正しく解釈できない。

つまり、ここで言っている私というのは、十四万四千人の一人びとりをも包含している。ここは、イエス・キリストと十四万四千人についての預言であるといえる。

このように考えるならば、ヨハネの黙示録とも合致する。

とくにヨハネの黙示録14章と合致する。

詩編2編7節以降をみてみよう。

私は主の定めについて……の私

主は私にい言われた……の私というのは、イエス・キリストと十四万四千人のことを言っている。

主=ヤハウェ

あなたは、私の子。のあなた

あなたを生んだ。のあなた=イエス・キリストと十四万四千人1人びとりのこと。

ここで私といっているのは、ヤハウェのこと。

8節の

私=ヤハウェ

8節中程の国々をあなたへのゆずりとして与える。ここのあなた。

地の果ての果てまであなたの所有として……

ここの、あなた=イエス・キリストと十四万四千人1人びとりのことをいっている。

9節のあなたは鉄の杖でかれらを牧し……ここでのあなたもイエス・キリストと十四万四千人1人びとりのことを指している。

まとめると、基本的にはイエス・キリストのことを表しているが、十四万四千人のことも包含している。この部分は、イエス・キリストと十四万四千人1人びとりについての預言。ただし、11節のおののきつつ震え、子に口づけせよ。ここの子=イエス・キリストのことだけを表している。

文脈を見ると、10から12節に書かれていることは、最期通告。

 

これと同じ内容のことがしるされている

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もう一度、ヨハネの黙示録14章1節にもどる。

十四万四千人のものたちも、シオンの山に子羊と共に立っているのをヨハネはみたわけだが、なぜ、十四万四千人のものたちが小羊とともにシオンの山に立っているといえるのか❓

詩編2編の6から12節、ヨハネの黙示録2章の26から28節、また、17章14節からも理解できる。

 

十四万四千人が小羊とともにシオンの山に立つという視点で他のバイブルの箇所からも考察していく。  ⬇️

この書は、パウロヘブライの教会にかきおくった手紙。この手紙は当時のすべての教会にもまわされた。パウロはここで当時の十四万四千人になる可能性あった人々にひとつの奥義を語っていた。

なぜ奥義だと言えるのか?

パウロ使徒ヨハネが黙示録のまぼろし掲示されるよりも何十年も前にこれとおなじまぼろし掲示をうけていた。そしてパウロまぼろしの意味を理解できていた。要するに、それらを熟知した上でこのような手紙をかいている。だから、パウロがかいた手紙はほとんどが奥義だと思ってくださいということ。

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ヘブライ人の手紙12章22節のあなたがたが近づいたのはシオンの山、生ける神の都、天のエルサレム……というのは、ヨハネの黙示録14章1節の表現でいうと、あなたがたは十四万四千人として召されて、小羊であるイエス・キリストと共にシオンの山に象徴的な意味で立つものとして近づいていると言いたかった。要するに生ける天の都とか

天のエルサレムというのも同じことをいっている。ただヘブライ人への手紙12章22節のあなたがたが近づいたのはといっているが、十四万四千人を構成しているのはどんなグループとどんなグループだった❓

一世紀当時のキリストの弟子たちの一部の人びとだけではなく、多くはこの終末の期間に集められる。あなたがたが近づいたのは……といっているあなたがた=特にこの終末の期間に仮選別されているひとびとが関係している。

ある意味隠された奥義。

 

シオンの山、生ける神の都、天のエルサレムというのは、すべて、子羊であるイエス・キリストと十四万四千人のそのポジションのことであって、それらは全て同じもののことをさしている。

 

パウロの手紙はほとんど奥義と言ったが、そのことは

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ここからもわかる。

 

次にペテロの第一の手紙2章4.5節からも考える

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ここで言わんとしていることは、イエス・キリストは人には捨てられたがヤハウェにとっては選ばれた尊い石である。

石というのは、建物を建てる際の土台に置く石のことを言っている。

一般に要石という用法のひとつには、ある物事の中心となる場所や、人、または重要な部分そういったことを表すときにも、用いられることがある。6節ではそうした意味で要石という表現で訳されていると考えられる。

つまり

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生ける石、尊い石というのは、5節をみると、イエス・キリストだけのこと言っているのではなく、十四万四千人1人びとりもみんなヤハウェから見て生ける石。また生ける石となるよう努力するように……といっている。

9節にはこのように書かれている

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聖書の中で立つというのは、ある高められた地位につくという意味もある。

シオンの山を構成しているイエス・キリストと十四万四千人。

今後、天のエルサレムといったら、イエス・キリストと十四万四千人のポジションのことをいっていると理解する。

 

ここで補足情報

天のエルサレムと新しいエルサレムは、同じではない。新しいエルサレムというのは、十四万四千人のものたちののこと。

つまり、天のエルサレムというのは、今回話したポジション。

 

ハルマゲドンは大きな苦難の最終日。そのハルマゲドンの直前に十四万四千人はあげられ、小羊であるイエス・キリストと共に今回考えたような仕方で立つ。

ヨハネの黙示録14章1節のポジション。ここでのポジションは、あくまでも高次元での話。

ヨハネは高次元のまぼろしをみた。

高次元は時間の概念がない

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二つのグループが十四万四千人として集められて、小羊と共に同じポジションにというわけだが、時間の感覚ではどうか?というと、それからすぐにハルマゲドンの決戦ということではない。感覚的にはすぐにではない。

なぜか?

高次元には時間の概念がないから。前回考えた新しい歌も関係してくる。ヨハネの黙示録14章3節を見ると……

この時の時間の感覚はそのときに経験して体感しないとわからない。

この地球時間でいうならば、あげられてから、ハルマゲドンの決戦直前までということ。

皆様には聖霊が与えられている。ヤハウェ聖霊を呼び覚ましていただき、ヨハネの黙示録14章1節をよく黙想してくださったらとおもいます。