《白い馬とその乗り手》(21)「後編」
前回の動画から、ヨハネの黙示録6章1、2節からの解説をしてくれています。
今回はその後編。
白い馬とその乗り手に関係した、別の聖書の預言からも考察してみる。
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イザヤ書62章11.12節
ここで出てくる「シオン」
前々回の動画でシオンの山について考えた。
シオンの山=小羊であるイエス・キリストと十四万四千人のあるポジションを表している。
このイザヤ書62章11節に出てくる「シオンの娘」とは誰のこと?
シオンの娘=十四万四千人一人びとり
十四万四千人一人びとりは、将来、小羊の婚宴の当事者となる者たちなので、シオンの娘というのはまさに相応しいと言える。
また、11.12節で、特に11節で、
「シオン」という言葉が使われているということは、ハルマゲドンの決戦と関係がある。
特に11節の後半には、『その働きの報いはその前にある』とあります。
ここから言えることとして、シオンの娘つまり十四万四千人一人びとりは、ヨハネの黙示録6章2節で考えた白い馬とその乗り手のような特質、決意、覚悟が必要。
11節でいっている「働き」には、それらがどうしても必要である。
でなければ、小羊の行くところへは、どこへでもついていくことはできないから。
もう一度イザヤ書62章11節の後半をみると、『その働きの報いは、その前にある』とあります。つまり十四万四千人一人びとりは、常にその報いを前面に掲げて前進していることを示唆している。
また12節をみると、彼らは『聖なる民主にあがなわれた者』とあるが、これまでに考えてきたバイブルの解釈と合致する。
さらに、続く部分に、彼らは『人に尋ね求められる者』とあります。なにを尋ね求められるのか?
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真の救済策
そのことがゼカリヤ書8章23節に別の角度から、次のようにものべられている。
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この中で、ひとりのユダヤ人というのがでてくる。
ひとりのユダヤ人=今の終末の期間に聖霊によって証印を押され、十四万四千人として仮選別されている者たちのこと。
もろもろの国ことばの民の中から十人の者が……
この十人の者=その他の仮選別者
彼らはひとりのユダヤ人である、十四万四千人として仮選別されている人々の衣のすそをつかまえて、『あなたがたと一緒に行こう。神があなたがたと共にいますことを聞いたから』と言っている。ここでひとりのユダヤ人の衣のすそをつかまえて……ひとりのユダヤ人とありますが、そのあとにはあなたがたと一緒に行こう。『あなたがた』といっていることから、文字通りの1人のことではないということは理解できる。続く部分にも『神があなたがたと共にいますことを聞いたから』とそのように書かれている。つまり、十四万四千人として仮選別されている者以外の者たちは、十四万四千人として仮選別されている者たちが、ヤハウェと共にいることを悟っている。
なので、それらの人たちは、彼らの衣のすそをつかまえて、『あなたがたと一緒に行こう。神があなたがたと共にいますことを聞いたから』といっている。
ここで述べられている衣
衣=その人自身
十四万四千人として仮選別されている者たちは、次のペテロの言葉を肝に銘じていないと……
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ペテロの第一の手紙 5章1ー4節
つまり十四万四千人として仮選別されている者たちは、他の仮選別者たちの模範となっていなければならないということがここからも読み取れる。
ここで、ヨハネの黙示録6章の1.2節を考えているが、ざっとまとめてみると
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知恵、識別力、洞察力それらの特質についてはどうか?十四万四千人一人びとりは、関係ないということなのか?
義とは?
義=神の義の基準つまり、ヤハウェのものさしのこと。
当然ヤハウェのものさしである以上、第二、第三、第四の生き物で表されていた特質も全て義の中に包含されている。それら全てが義。
それら全てを包含した義、さらには、勇気、覇気、勇敢さ、公平さや公正さという特質を前面にだして、あらわれてくる。
十四万四千人がそのように登場してくるという預言だった。
ヨハネの黙示録は簡単に解読できる預言書ではない。
ただ……
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白い馬とその乗り手は主に十四万四千人一人びとりを表していたということから、その後に続く馬とその乗り手も人間が関係している。
そして6章のクライマックスがハルマゲドン。
今から、重要なことを話す。
先回と今回で白い馬とその乗り手が主に誰を表しているのかを考えることができた。
以前の動画でも説明したが、
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そして、そのハルマゲドンの決戦の直前に
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十四万四千人柄最終的に印を押され、その後、全員そろった十四万四千人がまず、ハルマゲドンの決戦に加わり、その戦いにおいて勝利しなければならないということ。
6章2節をみると
白い馬とその乗り手は、『勝利の上にもなお勝利を得ようとして出かけた』とある。
このことに関する詳しい解釈は後日。
十四万四千人として最終的に印を押された者たちがハルマゲドンの最終決戦で、勝利を遂げたその後も彼らにはまだまだ勝利していかなければならないある。要するに、勝利しなければならないものの一つが、ハルマゲドンの決戦。
ということは……
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『勝利の上にも、なお勝利を得ようとして出かけた』というこの言葉から基本的に十四万四千人全員を表している。
なぜそういえるのか?
全員、ハルマゲドンの決戦において、十四万四千人全員がハルマゲドンの最終決戦で勝利しなければならない。ということは、ヨハネの黙示録6章の預言は基本的には十四万四千人全員が関係していると言える。
では、その点について別の面も考えてみる。
6章の文脈をみると他にも重要な情報が得られる。たとえばヨハネの黙示録6章の12〜17節。
この文脈からわかることは、まさにハルマゲドンの直前、諸国民が滅ぼされようとしているハルマゲドンの直前のことが描写されている。
ということは……
この6章てでてくる、白い馬とその乗り手は、ある意味、ここでは、もう十四万四千人全員がそろっているということを示唆しているということがわかるではないでしょうか?
ただ、ヨハネの黙示録は奥義だということを思い起こして欲しい。
その奥義の別の面を話していこう。
6章2節以降の文脈をみていくと、白い馬とその乗り手につづいて、ほぼ同時進行で赤い馬とその乗り手、黒い馬とその乗り手、青白い馬とその乗り手が登場してくる。
時間の関係で、詳しい解説はしないが、それに続く馬とその乗り手は、人間の悪の勢力のことを表しているということだけ今回述べさせてもらう。
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つまり、それらのものたちは、まだ復活させられていない。まだ加わっていないことになる。
そしてもう一つ
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6章の白い馬とその乗り手は、主に誰のことをいっているのか?
十四万四千人の中の特に今の終末の期間に証印を押され、ヤハウェに仮選別されている者たち。
別の表現で言うなら……
パウロがテサロニケ人への第一の手紙4章15ー17節の中でいっていた『生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたち』というグループ
また別の表現では……
『女の子孫のこりのもの』と言われているグループのこと。
最後に話の結論としてもう一つ大切な話をしたいと思う。
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終末の期間に入ってから、聖霊による証印を押され、十四万四千人として仮選別された者が、力、愛、知恵、識別力、洞察力をも包含したヤハウェの義の基準、そして勇敢さ、勇気、覇気、公平さや公正さといった特質が際立つような仕方で、一旦大きな苦難までにある意味整えられていくということ。
そのことを考えると、自分は不完全なのでここの描写には到底自分には相応しくないと感じられる方々もおられるかもしれない。不完全な人間は何度も間違いや失敗を繰り返し、神の義の基準を外している。でもそんな不完全な我々にヤハウェは、ある者たちに聖霊を与えてくださった。
ということは、ヤハウェが十四万四千人のひとりとして見込んで聖霊を与えてくださっているということ。
そのように与えてくださった聖霊を悲しませたくないと思われるのではないでしょうか?できればこの白い馬とその乗り手のように整えられたいと思われないでしょうか?
これまで聖霊が与えられているということがどういことなのか、また、それに伴って色んなプレーヤーの仕方を話してきた。
今回、ぜひ行っていただきたいプレイヤーがある。
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マタイによる福音書6章12節
この聖句、なぜ重要なのか?
この聖句の要点
①わたしたちの負い目を赦してくださいとヤハウェにプレイヤーを行うこと。
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このように祈るにはまず、自分がどれだけ罪深いか自覚していなければ心からそのように祈ることは出来ないでしょう。
聖霊が与えられていて、自分の良心が正常に機能している方々なら、既に自分の罪深さを痛感していることでしょう。
ヤハウェに自分の負い目、罪の赦しを祈り願うわけだが、そのとき、家族でも家族でも、知人でも、また職場同僚など、自分がその人のことをよく思っていなかったり、この人はダメだと考えたりすることがあるかもしれない。でも人の可能性を見てその人を見込んで聖霊をおかれるのは、ヤハウェです。人を評価し、さばく権限をもっておられるのはヤハウェです。
または、今の時点では聖霊による証印が押されていなかったとしても、その他の仮選別者として、仮選別を行われる方はヤハウェです。
ですから、この人はダメだと考えたり、他の人をさばいたりすることは、ヤハウェの見地からしてありえないこと。
一例
自分が悪い印象のコメントがかきこまれたとする。それも何かの縁。そのような人に対して、自分がどのように反応するか……
とくに重要なのが、自分の感情、思いががどのように反応するか……
この人のことだけは心から祈れないと思える人がいるかもしれない。そのような場合、そこで関係してくるのが……
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ペテロの手紙第一 4章8節
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
愛は多くの罪をおおうからです
⬇️自分がよく思っていない、また、よく思えない相手、もしくは、この人はダメだと思える相手、原因も含めて。その人のことを心から祈ることができるなら……
先程のマタイによる福音書6章12節にあったように、その人の負い目を赦していることになる。
それからです。
自分の負い目を赦してくださいとヤハウェに祈ることができるのは……
それができないうちはどうでしょうか?
そのような者の祈り、ヤハウェは喜ばれるでしょうか?
②罪=不完全
自分の罪を赦していただけるということが、徐々に不完全さが目立たなくなってくる
徐々に完全に向けてヤハウェの見地から見て、大きな苦難までに整えられてゆくということ
そして聖霊によって証印を押され、十四万四千人として仮選別されている者たちは、大きな苦難に入ると同時に完全になれる。
その最終日がハルマゲドン。
もうそのときは、人間ではありません。
それが今回考えた白い馬とその乗り手ということ。
これも十四万四千人の奥義。
イエス・キリストはマタイによる福音書5章の中で次のようにも述べられた。
この聖句もある意味奥義。
先程のマタイによる福音書6章12節のプレイヤーが心からできる方々は、大きな苦難までに整えられていき、大きな苦難に入ると同時に完全になれる。また完全になれることをゆるされる。そしてその最終日がハルマゲドン。
次の聖句は
完全なものになれるための招待の言葉でもある奥義。
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大きな苦難までに、イエス・キリストの招待の言葉を肝に銘じて頂けたらと思います。そして、大きな苦難の最終日です。
コリント人への第一の手紙15章51.52節のパウロが述べている奥義
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終わりのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。
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つまり、不朽の霊者として変えられるのを、その時経験することになる。ぜひ、心待ちにして頂けたらと思います。