《新しい天と新しい地へ》(23)
「新しい天と新しい地へ」ということで、ヨハネの黙示録20章を中心に考察していく。
その前に、一旦ハルマゲドンが終わりました。ヤハウェに選別されている者たちは、大きな苦難の最終日、ハルマゲドンを無事通過できたわけです。その時には、ヤハウェの側についていない者たちは、全て滅んでしまってもういない。
仮にこれまでなんとか生き延びていた者たちでも、前回の話の中で地下帝国やその他に隠れている者たちのことを話した。そのような者たちに、どのように永遠の滅びという裁きがくだるのか?それはその時になってみないとわからないことだが、ヨハネの黙示録19章17節以降をみると、ハルマゲドンの後、選別されていない人で、生き残っている人は、一人もいないとおもう。
例えば、19章20節に出てくる獣。獣というのは、同じヨハネの黙示録17章14節で小羊とその選ばれた者たちに、戦いを挑んでくるものたちのことですが、その獣と20節を見るとその獣をバックアップしている偽預言者と呼ばれている者たちですが、これらの者たちは、両者とも生きながら硫黄の燃えている火の池に投げ込まれたとありますので、瞬殺されるということ。それ以外のヤハウェから選別されていない者たちに関しては、18節に書かれている表現をつかうならば、先ほど述べた獣、そして偽預言者と呼ばれている獣なんですが、それ以外の王たちの肉、将軍の肉、勇者の肉、馬の肉、馬に乗っている者の肉、また全ての自由人と奴隷との肉、小さき者と大いなる者との肉を食らえと……。
そして21節の表現を使うならば、その肉をすべての鳥が飽きるまで食べたとあるので、例外なく選別されていないもので生き残っている人は、一人もいないとおもう。
地下帝国やその他の安全な場所に隠れている者たちは、天の軍勢によって瞬殺された後の、それらの者たちの肉は?
そのような場所というのは、もうそのような時には、真っ暗闇です。ヨハネの黙示録の19章21節にもどるが、ここ見ると
すべての鳥がすべての殺された者たちの肉を飽きるまで食べたということである。
これは想像だが、例えばコウモリ。コウモリは鳥類ではなく哺乳類だが、ここに出てくる鳥というワード、これは文字通りの鳥のことだけではなく、飛ぶ生き物の総称として、鳥というワードが使われているということ。これはあくまで想像だが、そのような暗闇の中でも、飛ぶことのできる生き物といえば、コウモリは考えられるとおもう。いずれにしても例外はないということ。
ここからは補足情報
大きな苦難に入って、ハルマゲドンの直前まで改心する間も無く殺されてしまった人たち、つまり、そのような機会のなかった人たちについては、心をご覧になられるヤハウェが使徒行伝24章15節に基づいて考えることができる。
その中を見ると、正しくない者も、やがてよみがえると書かれてある。ここで言っている正しい者、また、正しくない者という基準は、正義が関係している。つまり、正しい者というのは、神の義の基準に従った者ということ。
そして、正しくない者は、神の義の基準に従ってこなかった者たちということだが、従ってこなかった者たちでも、ヤハウェが再び復活させて、教育する機会をその人に与えたいと望まれるとしたら、その人は復活させられるでしょう。
ただ、ヨハネの黙示録19章をみるとわかるが、ハルマゲドンの最終決戦において、高次元側に滅ぼされてしまったもの達については、当然復活の希望はない。
では、視点を変えてこの地球はどうか?この地球上には、悪魔の世が築きあげてきた、いわゆるゴミがたくさんあります。例をあげるなら、人工衛星、地下などにあるものなど。そういったものも、完全にリセットしなければならない。
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この言葉は、文字通りに成就する。
天に召されている者たちは、その時には、霊の体ですので、何も問題ないかもしれないが、知的な選別者は?
ヤハウェは、全能者。全能者に不可能なことは何一つない。地球やその周辺が、丸焼け状態になっているとしても、その時に知的な選別者達を地球によく似た惑星に移しているか、他の安全な所に移されているかそのことについては聖書には何も書かれていないので、なんとも言えない。もしヤハウェが知的な選別者たちを、この地球に
住まわせたいと仮に地球にこだわったら、知的な選別者たちを一時的に安全な場所に移し、この地球が完全に復元した後に、それらの人々を地球に戻すことは考えられる。
そのような場合、この地球上にある植物や植物はどうされるのか?
ヤハウェはこがこの地球や地球上のさまざまな植物や動物を創造された時の様子を創世記1章からみることができる。
31節を口語訳聖書、新共同訳聖書、新改訳聖書をみてみた⬆️のように訳されているヘブライ語の擬似的な意味には、大いに満足したという意味がある。ヤハウェは、この地球や地球の上に作られたすべてのものにも思い入れがあってできれば損いたくない。地球のゴミと一緒にそれらのものも全て滅ぼしてしまう必要はない。そのように考えると、ヤハウェに選別された植物そして動物の主です。これらも同じように安全な場所に移されていると考えることが妥当といえるかもしれない。その際には、植物や生物を生存させるための循環過程、いわゆるサイクル。その要素となる微生物やその他、それらのものも一緒に一時的に安全な場所に移し、地球そのものが再び生物が住めるような状態になった後に、地球を完全に復元させるために順次、それらすべてのものを戻されると考えることができる。当然人間は最後。そのように考えてみると
⬇️調和する。
ヤハウェがこの地球そのものにも、強い思い入れがあるということがヨハネの黙示録11章18節からもみてとることができる。
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今現在でも、この地球を破壊しているものたちがいるが、それらのものについて「地を滅ぼす者どもを」といっている。
これは二十四人の長老、つまりセラフィムがヤハウェを代弁して語っている言葉。
ヤハウェがお造りになった思い入れのあるこの地球を滅ぼしている者どもといっている。このことからもヤハウェがどれほどこの地球のことを大切に思っておられるかをうかがいしることができるのではないか?
加えて言うなら、ヨハネの黙示録11章18節の「地」と訳されているこの語。地球のことだけをさして使われるギリシャ語が使われている。つまり、地球を滅ぼす者どもということ。こうした要素、そしてヤハウェのご性格などを考えてみると、知的な選別者と共に植物や動物、そして微生物その他のものも一時的に安全な場に移し、地球が完全に回復した後に、それらすべてを順次戻されると考えるのが妥当。
ここまでが前情報。
いまから、ヨハネの黙示録20章を考察していく。
朗読する前に、前情報。
ここにいくつかのワードがでてくる。例えば
⬇️下記のようなワード
「第一の復活」「第二の死」「火の池」に関しては節ごとの考察の時に解説する。
もう一つ。
この20章は始めから終わりまで、物事が起きる順番通り預言されているわけではない。つまり、同じ千年間の期間内でも、テーマごとに場面を変えて預言されている。書かれている順番通り物事が起きるわけではない。そこはおさえておいてほしい。
「ゴグ・マゴグ」に関しては、色んな解釈がある。例えば創世記を見ると、マゴグといのは、ヤペテの子孫であることがわかる。更にその子孫にメセク(メシェク)というものがでてくる。このメシェクからロシアのことだと解釈せている人たちもいる。エゼキエル書38.39章をみると、ゴグ、マゴグという表現がでてくるので、その部分をロシアにあてはめて、ロシアとイスラエルとの最終戦争だとこれはエゼキエル戦争ともいわれている。または、エゼキエル書38.39章とヨハネの黙示録20章をかぶらせた無理のある解釈をしているところもある。また別のあるところではゴグ、マゴグはロシアのことを言っているのではないといっているところもある。このチャンネルからいえることは、エゼキエル書38.39章これは明らかにハルマゲドンの最終決戦のことをいっているといあこと。そしてハルマゲドンの後のことがヨハネの黙示録20章の預言。ここでゴグ、マゴグという表現がでてくるが、もうこの時にはロシアは存在していないので、ハルマゲドンののちのことですから。ですから、ロシアのことではない。このことはまたあとで解説する。
まずこのことだけ言っておく。
ヨハネの黙示録20章1ー10節を朗読する。
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ヨハネの黙示録20章1〜3節をみると、
悪魔サタンが捕らえられ、千年間の底知れぬ所にとじ込められると。つまり、悪魔サタンルシファーは千年の間、底知れぬところにとじ込められる
ということなので、何もできない状態。
なぜか?
その理由は3節を見るとわかるが、諸国民を惑わすことがないようにするため。ここには悪魔サタンしかでてこない。つまり、この時点では悪魔サタンルシファーしかいないということ。
その理由については、過去動画で説明してある。
4節
「また見ていると……与えられていた」=十四万四千人のこと。
「イエスのあかしをし、……そこにおり、」と訳されている。ここを見ると口語訳聖書では首を切られた。新共同訳聖書では首をはねられたもの、新改訳聖書でも首をはねられたと訳されている。
ここで使われているギリシャ語は、首を切られたとか首をはねられたと訳しても間違いではない。幅広い意味のギリシャ語がつかわれているので。
ただ、この使徒ヨハネが黙示録を筆記した一世紀当時は、剣で首をはねるという処刑方法が一般的だったようである。実際に使徒言行録12章1.2節をみると
ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。ヨハネの兄弟のヤコブは文字通り、剣で斬り殺された。ただ、十二使徒たちとか、その他のものたち、つまり、一世紀当時イエスの殉教したお弟子さんたち全員が首をはねられたわけではない。ヨハネの黙示録20章4節のイエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊の首を切られたとか、首をはねられたというこの部分。
ここで使われているギリシャ語の擬似的な意味は処刑という意味がある。この部分は処刑を意味する言葉だったらどのように訳しても問題はない。
ただ、その当時は使徒言行録12章1.2節に書いてあったように使徒ヨハネの兄弟、ヤコブが処刑された方法が一般的だったために、ここでは首を切られたとか、首をはねられたと訳されていると思われる。でも20章4節のギリシャ語の擬似的な意味は、方法は問わず処刑のことをいっている。この説のイエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々というのは、一世紀当時に処刑されたイエスのお弟子さんすべてのことをいっているということが理解できる。
そして次
「また、獣をも……受けることをしなかった人々」というのは、今の終末の期間に十四万四千人として仮選別されている者たちのことをあらわしている。
なぜそのように言えるのか?
ここで言っている獣とか獣の像というのは、今の終末の期間に存在している獣を表しているから。4節の後半のこの部分は一世紀は関係ない。
「彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した」となっている。生きかえったと訳されているが、別の表現を使うならば、新しいものに生まれ変わる。いわゆる再創造。再創造に関しては、ある意味奥義。そのことについては、次のように書いてある
⬇️
朽ちるものは必ず朽ちないものを着、つまり不朽の体を身につける。要するに与えられる。この死ぬものは死なないものを着ることになる。要するに、不滅の体が与えられるということ。これがヨハネの黙示録20章5.6節で表現されている「第一の復活」のこと。朽ちないもの、つまり不朽というのは本来は滅びることのない体ということ。そして、死なない。これは不滅です。滅ぼされることがないという保証が関係している。
まとめると……
不朽というのは、本来は滅びない体、器官のこと。不滅というのは、同じようにも聞こえるが、不滅にはヤハウェの信頼が関係している。ヤハウェからの最終の信頼を勝ち得ていなければならない
不朽と不滅では質が違う。不朽は本来、滅びの及ばない体、器官のこと。
聖書で言う不滅。不滅はヤハウェでさえ滅ぼさないという保証の伴った、ヤハウェからの信頼を勝ち得た体ということ。
要するに滅びないという点では同じ。不朽と不滅では質が違う。でもどうでしょうか?
十四万四千人一人びとりは、この時点では、小羊の行くところへは、どこへでもついてきた者たち。ですから、彼らは生き返ってキリストと共に千年の間支配したと預言されている。もちろん十四万四千人はそれで終わりではない。次回その点でさらに肝となる話ができたらと思う。