《新しい歌とは?》(22)「後編」
先回に引き続き、新しい歌の後編ということで、詩編149編から新しい歌の肝となる話をしていく。
基本的には口語訳聖書から解説していくが、所々新共同訳聖書や新改訳聖書も用いて解説していく。
主をほめたたえよ。この部分は新共同訳聖書や新改訳聖書をみると、主をほめたたえよという部分が、「ハレルヤ」となっている。
「ハレルヤ」とはどういう意味なのか?
ハレル ヤハウェのこと。つまり、ハレルヤというのは、この口語訳聖書で訳されている、主を褒めたたえよという意味。もっと厳密に言うならば、ヤハウェをほめたたえよと言う意味。
1節の聖徒というのは、十四万四千人一人びとりのこと。
つぎに2節
新共同訳聖書のほうがわかりやすいと思うので、新共同訳聖書から解説する。
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ここで言っている、イスラエルとかシオンというのは、文字通りのイスラエルとかシオンという意味ではない。
霊的な意味での霊的イスラエル、シオンの子らである。これは十四万四千人のことを表している。つまり、十四万四千人による勝利の歌、そしてヤハウェをほめたたえる賛美の歌ということ。要するに1、2節の中で聖徒のつどいとかイスラエル、又はシオンの子らというふうに書かれているが、表現の仕方が違うだけで、同じもののことを言っている。
まとめると
新しい歌をうたえ。聖徒のつどいでヤハウェの誉れをうたえ。霊的イスラエルはその造り主によって喜び祝い、シオンの子らはその王によって喜び踊れということ。
十四万四千人による、ヤハウェをほめたたえる賛美の歌、そして勝利の歌ということ。
3節
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同じ部分を新共同訳聖書と新改訳聖書も読み比べてみると、十四万四千人すべてが、1人びとりが勝利を目前にして、喜び祝っている様子が描かれている。
ただ、ここでも「うたえ」という表現がつかわれているが、「そうするように」という意味ではなく、その時には自然とそうなっている。必然的にそのような状態になっているということ。
4節
ヤハウェはおのが民、つまりご自分の民を喜び……とある。
ここで言っている「ご自分の民」というのは、十四万四千人1人びとりのこと。その1人びとりが、へりくだる者、謙遜になってヤハウェの御前で小羊の行くところへはどこへでもついてきた十四万四千人1人びとりです。そのような者をヤハウェは勝利をもって飾られる。
5節
ここで言っている聖徒というのは、十四万四千人1人びとりのこと。
同じ部分を口語訳聖書、新共同訳聖書から考える
新共同訳聖書の
主の慈しみに生きる人=十四万四千人1人びとり
伏していても喜びの声をあげるとか、口語訳聖書では、「床の上で喜び歌わせよ」とあるが、このような訳しかたでは分かりづらいかもしれないが、「伏している」とか「床の上」とか、このような表現は、聖書の中では、通常、寝ている時間帯を指して使われる言葉である。本来ならば、もう寝ている時間帯ということ。
それでも十四万四千人1人びとりは、栄光によって喜び勇んでいる、いつもならば寝ている時間帯でも。ハルマゲドンの最終決戦のときですから……
つまりここではそのような様子を描写しているということ。
6節
その手にはもろ刃のつるぎがある。何のためか?
傍観しているだけで天に召される、あるいは、天国に入れる、空中で主と会って幸福になれるといっているキリスト社などがあるが、果たしてそうなのか?
本当にそれらの人々が言っているような解釈が真実でそのような仕方で本当に勝利できたとしたら、その時は確かにそののどには、神をあがめる歌があるかもしれない。でも、もう一度繰り返すが、6節後半をみると、
その手にはもろ刃のつるぎがあると書いてある。
何のためか?
7節にこれはもろもろの国にあだを返し、もろもろの民を懲らしと書いてある。
この表現どこかできいたことない⁉️
【ヨハネの黙示録2章26.27節】
十四万四千人1人びとりは鉄の杖をもって土の器をくだくように彼らをおさめると……
それはイエス・キリストご自身が父から権威を受けておさめるのと同様である。
下記のものと合致する。
これらの聖句を読んでも明白。十四万四千人として選別されるということは、ただ傍観していればいい、そういう意味ではないということは、ふつうにわかるのでないか?
その手にはもろ刃のつるぎがある。もろもろの国にあだを返し、もろもろの民を懲らす為。
意味深なことがかいてある。
この王たち、貴人たちとは?
実際にハルマゲドンの最終決戦の時に、自分たちは、指令を出すだけだして、一般のひとたちが入ることすらできないような、例えば地下帝国やその他。いわゆる安全なところに避難している。そのようなここで言っている王たち、貴人たち として表現されている者たち。
要するにそのようなもの達を
鎖で縛りら鉄のカセで縛りつけ……とかかれてある。聖書の用法の中で鎖とかカセというのが預言的な描写で使われている場合、どのように解釈することができるか?
①もとには戻れない状態
②永遠の滅び
つまり、それらが決定的であるということをあらわす時に鎖やカセという表現か使われる。
要するに、どこに隠れていようが、永遠の滅びという裁きから、逃れられないということ。
9節後半
これが今回の新しい歌の肝。現在十四万四千人として、仮選別されている方々は、今回の詩編149編の新しい歌の趣旨を心から受け入れ、そのために、今、自分にできることを実践しておられることでしょう。つまりマタイによる福音書24章44節のこの言葉です。
そのときがいつきてもいいように、用意をしているに違いありません。
そして今回の新しい歌の主旨にそった招待です。このような招待がさしのべられていることを心から喜んでおられるのではないか?
それがまさしく、これは全ての聖徒にあたえられる誉れである。
主をほめたたえよ。ハレルヤということ。
今日、人類がこのような窮状に陥っている原因は?
誰が原因を作ったのか?
最初の人間、アダムとエバ。悪魔サタン。
人間が原因をつくった。人間が関わっている問題であるのに、我々人間が、十四万四千人がハルマゲドンの最終決戦のときに、傍観しているのはどうでしょう?
小羊=イエス・キリストは、自らの手で悪に鉄槌下す。十四万四千人1人びとりは、小羊のいくところへは、どこへでもついていく者たちではなかったか?他の団体様が言っているように霊的な意味での勝利も大切。でもハルマゲドンの最終決戦のときに、イエス・キリストご自身が十四万四千人一人びとりに対して、ともに次のように行おうと招待してくださっている。
ヨハネの黙示録2章26.27節
1000年間の統治期間に入ったなら、その時は元人間であった十四万四千人一人びとりには、使命が与えられている。元人間であった者としての使命。でも、ハルマゲドンの最終決戦のとき、十四万四千人一人びとりは、原因を作った先祖、アダムとエバの尻拭い、つまり、ケジメをつけるという使命が与えられている。これが今回考えた詩編149編の新しい歌。
最後に149編6節を読む