《新しい歌とは?》(22)「前編」

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https://youtu.be/-weY6Sm1O5U

 

前回までで、ヨハネの黙示録6章に登場する、白い馬とその乗り手が、主に十四万四千人の特にどのグループを表しているのか?ということを考察した。

現在、聖霊による証印をおされ、十四万四千人として仮選別されている方々は、マタイによる福音書6章12節のプレイヤーを加えていただければということを話した。このプレイヤーは、なぜ重要といえるのか?

 

前回の動画の後半で、ある意味肝となる内容の話をした。まだ視聴されていない方々は、是非そちらの動画を視聴してくださったらと思う。

 

前回6章12節を新共同訳聖書から読んだが、今回は口語訳聖書から読む。

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前回読んだ新共同訳の「負い目」という部分だが、新改訳聖書も「負い目」と訳されている。また、別の聖書では、「罪」とか口語訳聖書のように「負債」と訳されているものもある。

この部分は、ある意味、文字通りの「負債」も関係している。覚えておかれるとよいかも……

 

例えば、「負債」と考えた場合

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大きな苦難に一旦入ってしまうと、お金というものは何の役にも立たない。そのお金、つまり、口語訳聖書の訳で言うなら「負債」

そのような「負債」に関して、マタイによる福音書18章21ー35節。この原則なんです。今回は朗読しないが各自で読んでいただけたらと思う。

 

この部分を読むにあたって、この中にイエスが話された例え話がかかれてある。その例え話の中で、タラント、デナリというお金の単位が出てくる。

わかりにくいかもしれないので、この例えをザッと説明する。

ペテロの質問に対してイエスが答えた時に、例えを使ったわけだが、その例え話がある王に対して、ある多額の負債を負っていたその王の僕の話。そして、その僕の負債の額というのが、1万タラント。
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1万タラントとは、どれくらいの額なのか?

これには色んな解釈がある。よく言われているのが数千億、またそれ以上。でもこの例えから言えることは、この例えの主旨は、資産を何兆円と有している人にも適応しなければならない例え。

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とりあえず、数千億、あるいはそれ以上といっておく。ただし、お金を持っている方だったらその方にとってとても返すことができない額と考えていただければとおもう。

 

もう一度、例えにもどる。

その主人は、その僕=あなたと妻と子供、持ち物を全て売って返すようにと命じた。
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この僕は必死になって、とにかくどうぞお待ちください。全部お返ししますとひれ伏して哀願した。するとこの主人はあわれに思って、僕をゆるし、その負債を免除し、全部帳消しにしてあげた。約数千億、それ以上全て帳消し。

ただ問題はそのあとの許された僕がとった行動。

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その様子を見て、心を痛めた仲間たちは……

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当時の1日の日当とは、今日でいうとどれくらいか? 

多くのキリスト教の団体は、今の日当に合わせて解釈しているところが多い。でもそうなると、この例えの趣旨に沿わない。

例えば、あるキリスト教の団体は、だいたい一日9000円くらい。ある団体は10000円くらいか、あるところでは1万数千円ぐらいだろうと色々言われている。でも、そうなってくると、百デナリってどうか?だいたい百万円くらいから百数十万円くらいとなる。

当時のユダヤ人は、一日の日当は?

職業によってピンキリ。今の日本人の感覚よりも最も低い人であっても、当時は多かったと思う。

マタイなどは取税人だったので、一日だいたい日本円になおすと、5〜6万、あるいはそれ以上の収入があったと考えられる。

そもそもこの1デナリ=1日の日当というこのワードを今の日本人の1日の日当に当てはめること自体にむりがある。

そもそもこの例えの主旨は、とても返すことができない金額ではありませんが、貸した側も簡単に許せる額ではないということ。

それを考えるとだいたい数百万ほどでしょうか?

この僕がその前に主人から許してもらった金額は、どれほどだったか?

これが、この例え話の教訓。

よく考えてみてください。

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興味深いことに、口語訳聖書のマタイによる福音書6章12節の聖句をみると……

わたしたちの負債をおゆるしください。わたしたちに負債のある者をゆるしましたように

ではない。

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まず、わたしたちに負債のある者を許しましたように……なのです。f:id:remedy5:20211116233459p:image

要するに、思考がこうなっていないと、ヤハウェからのゆるしは期待できないということ。

最初にわたしたちをゆるしてください。わたしも許しますから……ではない。

まず相手の負い目、罪、負債を帳消しにしてあげるくらいの思考になっていないとということ。

そのような目線で⬇️の記述をよんでいただきたい。この例えの主人というのは誰をあらわしているのか?

本来なら我々はヤハウェに対して数千億では済まないような負債がある。でも、その負債を全部ゆるしていただいているばかりか、特に十四万四千人はどうか?もう言わなくてもわかるであろう。

この例え話には色んな教訓が含まれている。

要するに、我々は生涯をかけても返せないような負債をヤハウェに負っているということ。

それを考えると、他の人に対することは、どう考えるべきなのか?ということ。他の人の罪、特に仲間の負い目、罪をゆるすことは、状況によっては文字通りの負債であっても、快く免除してあげるぐらいの認識ということ。

これらの補足情報を得た上でぜひ、改めて、マタイによる福音書18章21節からの記述を読まれて、ヤハウェのものの見方を知って頂けたらと思う。

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では、今回の本論。

「新しい歌」に入っていきたいと思う。

まずは、⬇️
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彼ら=十四万四千人は、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で新しい歌を歌ったとある。

この歌は、地からあがなわれた十四万四千人の他はだれも学ぶことができなかった。とつづいている。ここで出てくる新しい歌に関してだが、四つの生き物。つまりケルビムたちと二十四人の長老たち、つまりセラフィムたちは新しい歌がなんなのかもうすでに知っているということは、以前の動画で話した。では、この新しい歌とは何のことをいっているのか?そしてなぜ、十四万四千人のものだけにしか学ぶことができないのでしょうか?

 

実は、新しい歌が何なのか?という手がかりは、詩篇の中におさめられている。

詩篇となると、旧約聖書なので、別に新しくもない、要するに古い歌なのではないか?それに十四万四千人じゃなくても過去のヤハウェの僕たちは、皆この歌を知り、そして歌ってきたのではないか?と思われるかもしれない。

実際にそうである。詩篇はこれまでに多くのヤハウェの僕たちに読まれ、歌われてきた。

ただ、ここで新しい歌と言われているのは、

最新の解釈のもとで歌われる歌のこと。そして、十四万四千人の者以外には誰も学ぶことはできないというのは

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これは過去において一度も行われたことのないもの。詩篇のある箇所に新しい歌についての情報がのせられていて、ただたんに、それらを知っているとか、それらを朗読したり、歌ったりできるというそういう簡単な意味ではない。

 

新しい歌は、勝利の歌、全知全能のヤハウェを褒めたたえるうたでもある。また賛美の歌でもある。

まず勝利の歌、さらにはヤハウェを褒めたたえる賛美の歌という視点から詩篇33編全体を読んでみる。

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詩篇33編のこの部分です。十四万四千人として仮選別されていると、自覚されている方々は、定期的にこの部分を朗読してくださったらと思います。ここでなにを言わんとしているのかわかると思う。また、わかってくると思う。

 

今回もう一箇所、詩篇45編も朗読してみたいと思う。先程の詩篇33編は勝利の歌、またヤハウェを褒めたたえる賛美の歌

しかし、45編に関しては、十四万四千人の者以外には誰も学ぶことはできない、その視点から聞いてほしい。要するに、詩篇45編というのは、十四万四千人一人びとりが最新の解釈のもとで、この歌の主旨を受け入れ、実践し、また、この歌の主旨に沿ったある招待が差し伸べられているという視点で学ばなければならない部分でもある。

最初は分からなくてもよい。

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だいたいは理解できた方もおられたかもわかりませんが、わからなかった方もおられたことでしょう。特にここで登場してくる王。いったいだれのことをいっているのか?

1番最後の節にこう書いてある。

 

わたしは、あなたの名をよろず代におぼえさせる。このゆえにもろもろの民は世々かぎりなくあなたをほめたたえるであろう。

 

このように書いてある。ここだけをみると、これは天の父ヤハウェのことだと思われるかもしれません。果たしてそうでしょうか?

じつは、使徒パウロが自分の手紙のある箇所で、この王が誰なのか、この正体を明かしている。

次回、45編の全体の解説と、さらに、新しい歌の肝となる別の詩篇の箇所。そこから解説する。