《新しい歌とは?》(22)「中編」
前回の動画で……
新しい歌について
①勝利の歌、ヤハウェを褒めたたえる賛美の歌
という視点で詩篇33編を紹介した
詩篇の中には他にもこのような勝利の歌、ヤハウェを褒めたたえる賛美の歌があるので、今回は詩篇98編を紹介する。
まさしく勝利の歌。
⬇️
褒めうたえ、喜ばしき声をあげよ、なりどよめけ、喜びうたえというふうに書かれているが、「そうするように」とか「そうしなさい」ということではない。勝利の時には自然とそのような状態となり、必然的にそうなっていくということ。
前回話した新しい歌の意味
②最新の解釈のもとで、新しい歌の主旨を受け入れ、実践し、またその歌の主旨に沿ったある招待が述べられているという点においては、十四万四千人以外のものは誰も学ぶことができない。
前回詩篇45編全体を朗読した。
今回はその解説をおこなう。
その前に……
マラキ書3章14節から4章3節までを口語訳聖書から読んでみたい。
ただ、同じ部分が新共同訳聖書では、3章14節から3章21節となっている。
つまり、口語訳聖書4章1節から3節が新共同訳では3章19節から21節となっている。
アプリによったは、口語訳でも3章14節から3章21節となっているものもある。
口語訳聖書 マラキ書3章14節から4章3節
アプリでは3章14節から21節を朗読する
⬇️
⬇️
14.15節にはなんとかいてあったか?
⬇️
14節で特に興味深いのは、万軍の主の前に悲しんで歩いたからといって、なんの益があるかとかいてある。たしかにヤハウェに仮選別されている者たちは良心が正常に機能し、自分の不完全さを痛感するようになってくる。でも大きな苦難までに完全なものへと整えられていくということ。ただ、そのように神の義の基準に沿って歩むことを、またその命令を守っている姿は、仮選別されていないものからみると、あまりにも滑稽で、まるで悲しんで歩いているかのように見えるということ。ですから、それになんの益があるかと言っている。
15節を見ると
そのようなものたちは、今われわれは高ぶる者を祝福された者と思う。悪を行うものは栄えるばかりでなく、神を試みても罰せられない。
要するに……
高慢さや、悪を行うことを良いことのように、褒めるべきことのようにそれのどこが悪いんや。そんなもの罰せられるか。となっている。ますますそうなっていくことでしょう。
しかし、どうでしょうか?
⬇️
16節を見るとわかる。ヤハウェはしっかりとそれを見ているし、また、それを聞いているということ。一つの覚書。これが選別。
17節を見ると
まさに、高次元側が行動を起こすその日に選別されているもののことを、ヤハウェはなんと述べているか?わたしの者、わたしの宝、そしてわたしは彼らをあわれむとかいてある。
そして18節
ここで言われている義人というのは、神、ヤハウェにつかえるもののこと。
ヤハウェにつかえるものと、つかえないものの区別、違いがはっきりしてくるということ。
まさにこれはハルマゲドンの最終決戦の状態です。これは、ヨハネの黙示録19章11節からの部分と同じことを言っている。さらには、ペテロの第二の手紙3章10から14節と同じことを言っている。ただ表現の仕方が違うだけ。そして、マラキ書4章1節から4章3節の部分。ここになんとかいてあったか?
書かれている通り。マラキ書3章14節から4章3節までの部分からも考えることができたが、なぜ、詩篇45編を考える前にこのマラキ書のこの部分を考察したのか?読み取ってくださったらとおもう。
では、詩篇45編から新しい歌について考察していきたいと思う。
そこを考える前に……
前情報として、45編を筆記したのは、モーセの時代に生きていた当時反逆者となったコラというものがいたが、コラの子供の1人で、マスキールというものが書いた預言的な詩である。ちなみに、詩篇42編から49編全体は、コラの子供たちが書いた詩篇。コラの子は、1人ではなくたくさんいた。なぜそういえるのか?
新改訳聖書ではコラの子ではなく、コラびととなっていることからも、コラの子は少人数ではなく、ある程度たくさんいたことがわかる。
要するに詩篇42編から49編まではコラびとと呼ばれているコラの子たちによる詩篇ということ。そして42編から49編は全体を見ると基本的にはヤハウェに関連させたことを言っている預言的な詩。ただ45編だけは別。ヤハウェのことではない。
使徒パウロが書いた手紙の中で、この部分に言及している。そこをみると、この部分はヤハウェのことではないということがわかる。
誰のことを言っているのか?
そのことを解説していく。
1節の中程をみると、わたしは王についてよんだわたしの詩を語る。
この王というのは、イエス・キリストを表している。
そして、2節
2節のあなたはイエス・キリストのことをいっている。つまり、イエス・キリストは人の子らにまさって麗しく、気品がそのくちびるに注がれている。
このゆえに神は……ここで神と訳されているヘブライ語はエロヒム、エロヒーム。つまりこの神というのは、唯一神ヤハウェのこと。
ヤハウェはとこしえにイエス・キリストを祝福されたということ。
3節をみると、
ますらおよ とあります。新改訳聖書を見ると、勇士と訳されている。ここは勇士よという意味。まさしくイエス・キリストにピッタリの言葉。
イエス・キリストよ、光栄と威厳とをもって、つるぎを腰に帯びよといっている。
4節
真理というのは、神の御言葉、聖書のこと。正義というのは、神の義の基準のこと。
ですから、真理である神の御言葉聖書、そして、正義、つまり、神の義の基準を守るため、そのような動機、目的でヤハウェのものさしからブレないで、威厳をもって、勝利を得て乗り進め。と書いてある。まさしくヨハネの黙示録6章2節の白い馬とその乗り手です。
詩篇45編4節には、勝利を得て乗り進めとあるが、これは1回こっきりの勝利ではない。ヨハネの黙示録6章2節にあるように勝利のうえにも、なお勝利を得ようとしてでかけたということ。
あなたのみ右の手はあなたに恐るべきわざを教えるであろうと……かなり意味深な言葉。
さらに5節
一言でいうなら、ハルマゲドンの決戦のとき、まさしくこのようになるということ。
そして6節
ほかの聖書の訳は、すこしわかりにくいかも。
口語訳聖書はこうなっている。
神、ヤハウェから賜ったイエス・キリストの位は永遠に限りなく続きということ。王のつえというのは支配のこと。公平のつえ、つまり公平な支配のこと。
7節
イエス・キリストは義を愛し、悪を憎む。このゆえに神、あなたの神、ヤハウェは、喜びの油をあなたのともがらにまさって、あなたに注がれた。
ここで言っているイエス・キリストのともがら、つまり友ら。高次元にいるみつかいたちのこと。特にケルビムたちや、セラフィムたち、それらのものたちにまさって、イエス・キリストに注がれたということ。油というのはとこしえの王としての神の是認の象徴のこと。
8節を見ると
ここで言っている衣はイエス・キリスト自身を表している。少し8節の情景を思い浮かべてみよう。イエス・キリストの衣から良い香りが漂っている。周りはどうでしょう?
要するに、イエス・キリストの存在そのものが、周りを幸福にしているということを象徴的にあらわしている。琴の音は象牙の殿から出て、あなたを喜ばせる。というのは、周囲にいるものがイエス・キリストのことを称賛していることを表している。
9節
王の娘たちとは誰のこと?
ここで述べられている王、小羊、イエス・キリストの婚礼の当事者として招かれている娘たちのこと。そのものたちは将来王妃になる。誰のことを言っているのかわかりますよね?イザヤ書62章の表現を使うなら、「シオンの娘」です。そのものたちは、オフルの金を飾って、小羊、イエス・キリストの右に象徴的な意味で立つ。つまり、ここからです。十四万四千人一人びとりが登場してくるということ。
10節をみると、
十四万四千人一人びとりよ、聞け、かえりみて耳を傾けよあなたの民と、あなたの父の家を忘れよ。とかいてある。
十四万四千人一人びとりは、天に召され、将来、子羊と共に、御座そのものにはいる。ですから、この地球上のすべての事柄、それをあとにせよということ。つまり、未練を残すなということ。
11節
イエス・キリストは、十四万四千人一人びとりのうるわしさを慕うであろう。彼は(イエス・キリスト)はあなたの主であるから、彼を伏しおがめ。伏しおがめとあるので、崇拝と、とられがちだが、この時点ではまだ十四万四千人一人びとりと子羊との婚礼はとりおこなわれていないので、婚礼がすむまで、小羊の花嫁として招待していただいていることに対して感謝や敬意を示し、ある意味身をかがめていなさいということ。
12節
ツロの民、新共同訳ではティルスの娘よと訳されている。このツロ、新共同訳の表現ではティルスのこと。このツロ、また、ティルスというのは、ソロモン神殿の建設に際して、当時神殿の建設を援助した古代都市の名前。
⬇️
13節
将来、小羊の婚礼の当事者となる十四万四千人一人びとりは、殿のうちで栄をきわめ、こがねを織り込んだ衣を着飾っている。とある。
これは、イエス・キリストだけではなくヤハウェからも、また、すべてのものからも祝福された状態であることを表している。
14節
十四万四千人一人びとりは、そのような状態で、小羊のもとに導かれていきます。その共びとなるおとめらは彼女に従って行列にある。とかかれてある。共びとなるおとめらが、彼女である十四万四千人に従ってその行列にある。そのような状態を指しているのですが、将来、十四万四千人の一人びとりに従うここで言ってるおとめら、これは誰のこと?
このおとめらと言われているものたちは、王のもとに十四万四千人一人びとりが導かれる際に共に従っていくのですが、共びとというのは、婚礼の花嫁に従っていく従者のことをいっている。この従者というのは、行列をつくって花嫁に従ってついていきますが、婚礼の当事者ではない。ということは、この共びとなるおとめらというのは、誰のこと?
共びとなるおとめらというのは、十四万四千人以外の全ての選別者のこと。
15節
十四万四千人以外の選別者たちは、もちろんこの時は仮選別者たちではありません。十四万四千人以外の全ての選別者たちなんですが、小羊との婚礼の当事者ではないので、御座そのものには入れません。そして十四万四千人は御座そのものに入るんです。
16節
この節から流れが変わる。あなたの子ら=十四万四千人のこと。先程まで、王の娘とか、彼女、または王妃と表現されていたが、ここでは、十四万四千人一人びとりは、あなたの子らと表現されている。なぜそのように表現されているのか?福音書、さらにはパウロの書いた手紙またはイザヤ書などで、聖書的な根拠はあるが今回は長くなるので、それらの説明は割愛する。
話を戻すが、十四万四千人一人びとりが父祖に代わって立ちとなっている。父祖というのは、イエス・キリスト以前の先祖のこと。アベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセさらにダビデ王など。旧約聖書を見ると、そのような義人たちが沢山いる。つまり、父祖というのは、それらの人々のこと。でもどうでしょうか?あの信仰の父といわれている、アブラハムでさえ、御座そのものには入れない。十四万四千人一人びとりはどうか?そのような偉大な父祖たちに代わって立つ。小羊、イエス・キリストは、十四万四千人一人びとりを全地に君とするであろう。
このことは、ヨハネの黙示録3章21節に次のように書かれてあったとおり。
勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、私が勝利を得て私の父と共にその御座についたのと同様である。
ヨハネの黙示録2章26節から28節。
勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。わたしはまた、彼に明けの明星を与える。
このことを言っている。最後の節は説明するまでもないと思う。
次回、後編で新しい歌の別の詩篇の肝となる箇所をできるだけ具体的に解説できたらと思う。
今後、最終回に向けて、少し難しい、難解な話だと思うかもしれないが、聖霊による証印を押されている方々は、自分に与えられた聖霊を呼び覚ましてくださいというプレイヤーを引き続き行なってください。そして、偉大な教育者ヤハウェの導きを軽んじることのないようにしていただけたらと思います。
たしかに、人間的な見地からすると、短期間で真理を理解することはある意味無理だと思えるかもしれない。しかし、ヤハウェのご予定のとき、ヤハウェは、次のように述べている。
イザヤ書 48章17節
主はこう言われる、「わたしはあなたの神、主である。わたしは、あなたの利益のために、あなたを教え、あなたを導いて、その行くべき道に行かせる。」
イザヤ書60章21.22節
あなたの民はことごとく正しい者となって、とこしえに地を所有する。彼らはわたしの植えた若枝、わが手のわざ、わが栄光をあらわすものとなる。
その最も小さい者は氏族となり、その最も弱い国者は強い国となる。私は主である。その時がくるならば、すみやかにこの事をなす。