ついに!《完結編》(24)ー1
今回はついに完結編です❗️
ヨハネの黙示録20章に注目していく。
先回の話で話しましたが、悪魔はもうすでに滅ぼされている。最終的に生き残る人々が、この時何人いるのかはわからないが、最後の誘惑に勝利した、知的な最終選別者たちが、死ぬことはない。もちろん不朽不滅の体が与えられるわけではないが、ヨハネの黙示録20章14節をみると、
死も黄泉も日の池に投げ込まれた
⬇️
これは、死そのものが完全になくなると言うこと
このことを行うのは、小羊イエス・キリストと十四万四千人の者たちである。因みにヨハネの黙示録20章10節をみると、
とあるが、火の池も火と硫黄の池も意味は同じ。つまり、これらの者たちが完全に滅ぼされてしまうということ。別の言い方では完全に存在がなくなる。ただ、ここをみると、
「そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは夜々限りなく日夜、苦しめられるのである。」
⬇️
どう言う意味なのか⁉️
「苦しめられる」と訳されているここで使われているギリシャ語は、幅広い意味のギリシャ語が使われている。このギリシャ語の特徴は、永久にというニュアンスを含むギリシャ語。なので、ここを「夜々限りなく日夜、苦しめられるのである」と訳されてしまっても仕方のないギリシャ語なんです。ただ、先程も述べたが、このギリシャ語には、他にも幾つかの意味がある。このギリシャ語には、「試金石でためす」というのが、本来の意味。この試金石というものを簡単に説明する。
金などの判定したい金属を試金石などにこすりつけるなどして、その条痕色をみて、その金属の純度や品質を判定するもの。試金石という言葉は、何かの判断基準という意味で使われることがある。真価が問われる。本質的な評価が判断されるという意味で、試金石となるという使われ方をすることが多く、聖書の用法としては、あるものの能力、価値、計画の成否などについて、評価が決まるという出来事を指して用いられる。
ですから、この語の字義的な意味は、「試金石でためす」という意味があるが、この後には他にも、こすりつける、叩きつける、ぶつける、なぐりつける、痛めつける、苦しめる、せめく、拷問といった幅広い意味も含む語である。
まだこの語には、永遠というニュアンスが含まれているために、「彼らは、夜々限りなく日夜、苦しめられる」と訳されてしまった。
ここは、本来は、文字通り、永久に苦しめられるという意味ではない。先ほど述べた試金石の用法で考えるならば、悪魔サタンの能力、価値、計画の成否などについて、それらが、完全に間違いであると評価され、決定したということ。それ故に、永久に存在がなくなるという、つまり、そのような滅びが決定的になったということ。
興味深いのが、ヨハネの黙示録20章14節をみると、「死と黄泉も硫黄の池に投げ込まれた」と書いてある。もし、この部分を「夜々限りなく日夜、苦しめられる」というふうに解釈するとしたら、死と黄泉の未来永劫日夜苦しめられる」という面白い意味になってしまうのではないか?
ですから、ここは、悪魔が永久に存在がなくなる。そのような滅びが決定したという解釈になる。この部分はきちんと説明しておきたい。
話を戻す。
小羊、イエス・キリストと十四万四千人は、最後の誘惑をクリアした地上組の人々のために、死も黄泉も永久に滅ぼすことによって、彼ら、つまり地上組の人たちにとって、死はもはや、敵ではなくなるということ。