聖書を正しく理解する為の助け(1)

今回から、ずっと見てきた動画を振り返って、紹介していきたいと思います。

 

聖書を正しく理解する為の助けシリーズ

f:id:remedy5:20211222232337p:image

https://youtu.be/5vAQF3XO9IE

 

山上の説教として有名な部分をできるだけわかりやすく解説できたらと思う。f:id:remedy5:20211222232345p:image

f:id:remedy5:20211222232904j:image
f:id:remedy5:20211222232902j:image
f:id:remedy5:20211222232907j:image

と、かかれてあります。意味わかったでしょうか?

これを文字通り解釈すると大変なことになってし

まう。

f:id:remedy5:20211222232351p:image

「心の貧しい人は、幸いである。天の国はその人のものである。」この訳だけを見ると、何を言っているのかわからない。

この部分はラテン語ウルガーター訳経由で訳さられているので、実は大切な部分が抜けてしまっている。

この部分の字義的な意味は、心の霊が憂ている人たちという意味。

ですから、外国のある翻訳によると、この様な意味で訳されている聖書もある。ある聖書は、霊を欲している人たちと訳されているものもある。

この部分を正しく解釈すると、

真に霊的なものを求める。あるいは、霊的な必要を感じてそれを欲している人たちと理解することができる。

もちろん、ここの「霊的」というのは、バイブルの霊的なものということ。

何でもかんでも、例えばオカルト界とかスピリチュアル界で言っている様なものではなく、バイブルが教えている霊的な必要のこと。

つまり、そのような霊的な飢え、霊的な必要を感じている人たちというのは、貧しい人が、貧しさを満たそうとするぐらいの吸収力がある。つまり、聖書の正確な知識、理解を一つでも取り入れたいという欲求がある。それで、天国、つまり神の国は、そのような人たちのものである。という意味。

f:id:remedy5:20211222235149p:image

「悲しんでいる人たちは幸いである。彼らは慰められるであろう。」

この部分も文字通り極端解釈すると、常に泣いていないといけない、悲しんでいないといけないとなる。そうすると、どうして悲しんでいるのに幸いなのか?となる。

実際、聖書の他の部分をみると、例えばローマ人への手紙12章12節、そこを見ると、望みを抱いても常に喜んでいなさいとかいてある。そうすると矛盾が生じる。でも霊的な赤ちゃんがマタイによる福音書5章4節のこの部分を読むと、つねに泣いていないといけない。常に悲しんでいないといけないとなってしまう。

この部分は、何について悲しんでいる人たちなのか?ということ。

今のこの世、ルシファーの世の中です。こな世の中がいかに悲惨で非情で不正がまかり通っていて、弱い人たち、貧しい人たちが虐げ(しいたげ)られていて、苦しんでいる。そういう世の中を見て嘆いている人たちのことをいっている。

そのように嘆いて悲しんでいる人たちというのは、この今の世の中はおかしいと感じますので、バイブルの真理に引き寄せられる。そして、いまでも将来の希望や報いを知ることによって、実際に慰められるし、ハルマゲドン後は、全ての面において慰れられるということ。

 

5節も考えていく。
f:id:remedy5:20211222232340p:image

「柔和な人は、幸いである。彼らは地を受け継ぐであろう。」と書かれてある。

これだけを見ると、性格の柔和な人達や、温和な人たちがこの地上を受け継ぐと、文字通りに解釈するとそうなる。

でも、実際世の中には柔和な人、また温和な人って山ほどいる。そして性格は柔和で、温和であっても、人を騙したり、腹黒い人もいる。ですから、ここでは、そういうことを言っているわけではない。

これは誰に対して柔和か?

ミカ書6章8節

へりくだってあなたの神と共に歩む

そのことを言っている。その様な謙虚さ、神に対する謙遜さ、神の言うことを聞き入れようとする柔和さのことをいっている。

そして、その様な人は、地を受け継ぐとかいてあります。これは地上を受け継ぐという意味ではない。バイブルの中で「地」というのは、一般的に全人類を指して用いられることがある。そう考えるならば、いま、謙遜に神の言葉を受け入れ、ヤハウェと共に歩む人たちは将来、高次元を選ぶにしても、この地上を選択するにしても、新しい世の最初の親になる。

 

つぎに6節

f:id:remedy5:20211223222737p:image

「義に飢えかわいている人はさいわいである。彼らは飽き足りるようになるであろう。」

この部分はわかりやすい。現在神の義の基準を一つでも取り入れたいと願っている人たちのこと。つまり、義に飢えかわいているひとというのは、何が正しいのか、何が義なのかわからなくなっている。それで、バイブルの義の基準を知った時に、これが答えだ、これが真理だと感動するわけです。ですから、そういう点でヤハウェはその人たちの願いを現在でも満たしているということ。そして、将来その人たちには、詩編145編16節

の言葉が成就するわけなんです。

 

詩編145編16節

「すべて命あるものに向かって御手を開き望みを満足させてくださいます。」とかいてあります。

この、すべて命あるものというのは、高次元希望者ならば、霊の体が与えられた高次元にいくものたちのこと。地を選択する者にとっては、完全な体があたえられる。そしてヤハウェは全ての者たちの望みを満足させてくださる。ですから例えば、今、不完全な人間の思考の中で将来と考えても限界がある。完全になって初めて自分が湧いてくる。それを満足させてくださる。これ以上の報いはない。

 

聖書は文字通り解釈できる部分もある。ただある箇所に関しては、文字通り解釈すると、とんでもない極端な行動をとってしまうということもあるかもしれない。

 

《完結編》(24)ー5 最後に……

最後に皆様に伝えたい事柄として、このチャンネルから完結編という形で、今日アップロードできました事、皆様の心からのプレイヤーに感謝したい。今後このアカウントから動画をアップロードすることは、もうしたくてもできないと思う。今回皆様にYouTubeという形で最後の動画をなんとかアップロードすることができた。ただ、これで証が終わったわけではない。ヤハウェは皆様に何を望んでおられるでしょうか?

 

テモテへの第一の手紙10章13節

f:id:remedy5:20211218115632j:image

ペテロの第二の手紙3章9節

f:id:remedy5:20211218115829j:image

ヨハネによる福音書17章3節

f:id:remedy5:20211218115944j:image

ローマ人への手紙10章13節

f:id:remedy5:20211218120614j:image

f:id:remedy5:20211218120612j:image

と書かれてある。これらの聖句から考えることは、メッセージャーは、大きな苦難の直前まで何かしらの仕方でメッセージを配信しなければならないということ。今後どのようにしてその努めを行い続けることができるか?

 

この今までのFrom   KSRGの動画の内容というのは、ある意味、初歩的な教理の様なものだと思ってほしい。今まで上げてきた様々なシリーズがある。例えば「新しい天と新しい地」の後編で完全な者へと再創造された、海の砂つぶのような大勢の人達が、一瞬にして悪魔の側についてしまったのである。これだけでも黙想次第で学べることはたくさんある。

 

荒らすべきものシリーズの逃げるのが冬にならないのうに、又は安息日にならないようにというのはどういう意味だったか?黙想次第で色々な教訓を引き出せる。また、ヤハウェイエス・キリストについて知る為の助けシリーズ。あの動画はある意味あらすじを紹介したに過ぎないが、黙想次第では色々な教訓を学べる様に作ったつもりである。

今後メッセンジャーを引き続き行なってくださる方々は、今までシリーズ化したすべての動画で紹介されていた知識、それらの知識をさらに皆様がよくプレイヤーを行った上で黙想つまりよく噛み砕いて消化し、そこから学ぶことこできる色々な教訓や努力すべき点、励まされ頑張ろうと思った点、励まされ頑張ろうと思った点、動画から学べた報いや希望、引き続き発信してくださったらと思う。特に十四万四千人として、仮選別されている方々は、ヨハネによる福音書14章26節に書かれてある様に、

f:id:remedy5:20211218123828j:image

その聖霊によって、インスピレーションが与えられた方々は、そのようなものを発信してくださったらと思う。

大切なのは定期制。毎日ということではない。皆様にも皆様のリズムがある。このアカウント或いは、セカンドチャンネルから動画を上げたくてもあげれない状態。今後は例えばブログという形で引き続きメッセージを発信するかもしれない。

 

大きな苦難にいつ入るか?はヤハウェ次第。我々も何かしらの方法で、メッセージを発信したいと思っている。この動画を視聴してくださる1人でも多くの方が、その様にしてくださったらと思う。

最後に

マルコによる福音書13章10節

f:id:remedy5:20211218124610j:image

もう一言だけ。

ヤハウェは天での司法上の決定を、予定通りの時に実行された実例もあれば、何かしらの状況によっては予定の時より先に延ばされた実例がある。このことは過去動画でも説明しているが、一例としては、ヨナの時代にニネベに対する裁きを200年以上も延ばされたという実例があるくらいである。もちろん、今の世界情勢や地球の異変などをその他いろいろを考えると、そこまで先延ばしにされるというのはあり得ないが、ただ今後ヤハウェはがこの悪魔の世をどの程度許されたとしても、我々は主人が到着したときに、

マタイによる福音書25章21節に書かれているある、その様な僕でありたいと思わないだろうか?

f:id:remedy5:20211218125844j:image

 

《完結編》(24)ー4

f:id:remedy5:20211216115713j:image

https://youtu.be/71jHWBbYFzM

 

24分30秒の部分から解説する。

 

「地と地に住む人々」という表現の中にも、実は用法が隠れている。ここで「地に住む人々」ではなく、地と地に住む人々というふうに、地という語が2回繰り返されています。この「地」という語には、先ほど述べたような用法がありますが、ここでは、それを、2回繰り返すことによって、「地」の用法をさらに強化させている。つまり、一般の著名人や有名人よりももっと社会を動かすことができる人たち、そのような立場の人たちといえば、ここでいっている「地と地に住む人々」というのは、政治関係者のことであると言えないか?

話を続ける。

 

12節で、小羊のような角が2つある獣は、まず先ほどのものたちに、ここでいう先の獣を拝ませるということ。

13節をみると、

f:id:remedy5:20211216121731j:image

大いなるしるしを行って、人々前で火を天から地に降らせることさえした。とあるが、このような現象は、今のテクノロジーで簡単にできること。

ただ、「火を天から地に降らせる」というワードですが、先の獣と小羊のような獣のバックには人間をはるかに超越した高次の存在。高次元の高次です。そのような存在が自分達の後ろ盾として付いていると言うことを、先ほど述べた人々に信じ込ませるための全てのしるし、何かしらのしるしと解釈することができる。このチャンネルの中には、削除される可能性があるので、あまり具体的なことは言えないが、これで読み取って頂きたい。繰り返すが、一般人を惑わし、信じ込ませると言うより、そのような人々を信じ込ませると言うこと。そしてそれらの人々に獣の像を作らせる。そして15節。

 

この獣の像に息を吹き込んで、獣の像が物を言うことさえできるようにしたと。つまり、この獣の像というのは、先の獣、その獣にアクセスするための言わば案内人、窓口のようなものと考えることができる。それが、獣の像。そして、その窓口からアクセスさえすれば、これはあくまでも例えばということだが、今までの既成のものよりも、一言で言うならば、こっちの方が遥かに得だといえるさまざまなサービス。いくつか例を上げるとと、医療サービス、金融サービス、経済的なサービス、安価なエネルギー、効率の良い教育など、それらを新未来における救済策として掲示されたらどうか?

繰り返すが、その窓口でアクセスさえすれば、例えばマイナンバー紐付け登録、それも無料の登録さえすれば、先程いくつか例をあげた、今までの既成のものより遥かにメリットのあるサービス。つまり、救済策が掲示されたらどうか?という事。

 

それで、この獣の像が、どのような仕方で現れてくるのか?どんな顕著な仕方で現れてくるのか?ということに関しては、今の時点では、はっきりしたことはいえない。ただ一つ言えることは、ヨハネの黙示録13章の「先の獣」と同じ目的、また、同じ目標を持っているということ。そして全世界に、つまり、世界中にその窓口があると考えられる。このことだけは抑えておいてほしい。そして、もう一つおさえておいてほしい。「獣」というのは、まず政治支配者のこと。或いは、一般の政治家や政治関係者ではなく、政治的な主だった組織などのこと。

 

そして大いなるバビロン、大バビロンである。これは、それらの者たちがを裏で操っている者たちの総称。ヨハネの黙示録17章をみると、ハッキリと書かれてある。

今後、第八がその大バビロンを焼き尽くす。つまり、大バビロンのピラミッド構造が完全に崩壊する。でもその後は、獣は全部残っている。

大バビロンが完全に崩壊した後に、それらの獣がどう動いてくるか?そして、世界中のすべての獣が、第八に全面的に協力するかどうかはわからない。ただヨハネの黙示録17章12節をからをみると、ここで10本の角、10人の王として象徴的に表現されている獣たちが、一致団結して第八とともに動いてくるということはわかる。それらがどのように動いてくるのか⁉️ということ。

大バビロンは崩壊しても獣は存在している。それで例えばですが、わかりやすいのが国連。今国連は大バビロンの支配下にある。その大バビロンがいなくなる。第八が国連をそのまま横取りして、その機構を用いて、世界を一時的に統一させようとする事は考えられる。実際に、国連というのは、格好の道具。そしてもし仮に、国連などを上手に使ってきた場合である。実際に国連はSDGs持続可能な開発目標を2030年までの国際目標と掲げている。

検索してみると、どんな目標が掲げているかみることができる。

外務省のJapan  SDGs   Action   Platformというホームページをみると、日本政府のSDGsに関連した取り組み事項の新着情報を知ることができる。今のところ、SDGsときいても、政府がその様な取組みをしているかについて、どれ程の方がご存知か?もしかしたら知らない方もいるかもしれない。

実際、このSDGsに対して、積極的に取り組んでいるのは、今のところ、政府、企業、またある法人、さらに個人でもこの取り組みに奉仕して参加している方々もおられる。そして事実、17の項目が掲げられている。世界平和を目指して。駄々今現時点では、奉仕。例えばSDGsアワードというところをみると、持続可能な開発目標SDGs達成に向け企業、団体等の取り組みを促し、オールジャパンの取り組みを推進するために2017年6月の第3回SDGs推進本部において、創設が決定されました。SDGs達成にしする優れた行いを行なっている企業、団体等をSDGs推進本部として表彰するもの。OGO  NPO 有権者民間セクター国際機関等の広範な関係者が集まるSDGs推進円卓会議構成員からなる選考委員会の意見を踏まえて決定されますとかかれてある。つまり、簡単に言うと、この取り組みを積極的に行なっている企業、団体、または個人を表彰すると言うものがある。例えば、内閣総理大臣賞、内閣官房長官賞、外務大臣賞、SDGsパートナーシップ賞(特別賞)。

つまり、国からこの様な表彰が行われる訳である。そうすると、この様な賞を授与された企業、団体、個人はどうか?と言う話である。ただ、このSDGsの取り組みの目標は、「全世界一人残らず取り組みましょう」である。大バビロン崩壊後、今まで通り表彰して云々という話ではなく、あきらかにこのネットワークに入らないと損、と言うふうに形を変えてきたら……と言う話。

 

話を戻すが、いざれにせよ獣の像、それがどの様な形を取ってくるか?ということ。獣の像がどんな形を取ってきたとしても、一つ言える事は、何かしらのおいしい話を匂わせてきたら?ということ。そしてここにアクセスしないと損、またアクセスしてその輪に入らないと差別的な扱いを受けるというもの。その様なときにもしかしたら、マイナンバー紐付け登録という方法で、推奨という形をとってくるかも。そうなったときに、皆様ならどうされるか?マイナンバー紐付け登録するだけで、今までの既成のものよりも、もっと便利なサービスをそこから提供されたらどうか?そして多くの人たちがその時、テサロニケ人への第一の手紙5章3節にあるように、平和だ無事だと世間がそうなった時です。

 

テサロニケ人への第一の手紙5章3節

人々が平和だ無事だ安全だといっている矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない

《完結編》(24)ー3

f:id:remedy5:20211214234907p:image

https://youtu.be/71jHWBbYFzM

 

16分までスクロールしたところから解説する。

 

大きな苦難にいつ入るのか?

それはヤハウェのみぞ知る。

近いのは確かだが、もうこれで本当に最期。何が起きるのかはヤハウェ次第。

これは、過去動画でも説明してくれている。

聖書には天での司法上の決定を予定通り実行した実例もあれば、司法上の決定を何かしらの状況によっては、変更し、先に伸ばされたという実例もある。ですから、私たちはいつも目を覚ましていながらも、日常の生活を送りつつ、フィリピの信徒への手紙3章16節新共同訳 

⬇️

f:id:remedy5:20211215233635j:image

どこまで到達したか、その進歩したところに応じ、引き続き同じように進んでいくようにということ。さらに

ピリピ人への手紙1章10節f:id:remedy5:20211215234252j:image

ローマ人への手紙13章11節から14節

エペソ人への手紙5章10〜17節

 

これらの聖句は各自で読んでいただけたらと思う。

では今回最期です。

ヨハネの黙示録13章11節からをみると、

小羊のような角が2つある獣、別の箇所では、偽預言者として描写されているが、今後この獣が顕著な仕方で現れてくることでしょう。この小羊のような角の2本ある獣は13章の初めに登場した獣、その獣が3節で死ぬほどの傷を受けるとありますが、その獣が再び立ち上がってきたときに、その獣をバックアップするために、顕著な仕方で現れてくる。それで、先の獣をバックアップするこの小羊のような2本の角のある獣の特徴です。まず、龍のようにものを言う。さらに先の獣の持つ全ての権力をその前で働かせて地と地に住む人々に再び立ち上がってきたこの獣を拝ませる。ここで地と地に住む人々というワードがでてくるが、これは普通に読んでいくと、一般の大衆を捉えがちですが、聖書の様々な用法から考察すると、一般大衆というよりもおそらく著名な、それも政治関係者です。そのように考えてできる理由について、いくつか話していきたいと思う。

 

まず、聖書の中で地という語の用法を覚えているだろうか?地という語の用法には国々とか、特定の人々、安定性、整えられる、備えられるなどの用法かある。これらの要素を考えると、全世界のある特定の人々、それも、整えられ、備えられ、安定しているという、つまり、世間の人々から見て、ある意味、信頼できる?一目置かれて安定している特定の人々というふうに考えてみてください。さらに13章全体からわかることとして、この章の主人公はまず最初に登場してくる獣。そして11節でその先の獣をバックアップする小羊のような2本の角のある獣である。この二つの獣が主人公。そして、その獣に権威を与えているのは、龍。つまり、政治家に権威を与え、動かしている。その獣からある目的を行わせるために、ふさわしいものとして見込まれ、抜擢された人々。これらの要素を考えると、普通の一般人や、単なる著名人と考えるよりも、ここは世間一般の人々から見て、安定していて、信頼されていて?一目置かれている特定の人々。つまり政治関係者と考える方が妥当でしょう。どれだけの著名人であろうが、どれほどの有名人であろうが、またどれほどの影響力のある人であろうが、一般人である限り、束になって団結しても、世の中を動かすだけの力……どうでしょうか?

大抵は潰されてアウト。ただ、ここでいっている一般の人々の中に聖書でいうおおいなるバビロン、つまり、大バビロンを構成しているものたち、もしくはその関係者が含まれてない。むしろ、それらの者たちが今は獣。聖書で言う獣を操作しているぐらいですから……。そこは誤解のないように。

話を戻す。

 

 

 

《完結編》(24)ー2

f:id:remedy5:20211214230446p:image

https://youtu.be/71jHWBbYFzM

 

(24)ー1のつづきを解説したいと思う。動画を10分までスクロールして頂きたい。

 

ヨハネの黙示録21.22章。この預言は千年間の統治期間のスタートのまた別の場面からその後、さらに将来のことが預言されているもの。

時間の関係で詳しい解説はしないが、だいたいはわかると思う。コリント人への第一の手紙15章24節にあるように、小羊イエス・キリスト、さらに十四万四千人は、このように全ての点において、最後の敵に勝利してから、御国を天の父、ヤハウェに返される。つまり、ヤハウェこそが、永久にわたって王の王、主の主、そして、とこしえの父になられるということ。でも、だからといって十四万四千人は、それで使命が終わった意味ではない。前回も触れたが、地上組の人々が増えていった場合、人類はさらに別の銀河へその中の地球とよく似た環境の惑星に移住していくことになるでしょう。移住先でも地上組の人々はさらに増え続けていくことになるでしょう。

三次元物質宇宙全体からヤハウェが賛美されている様子を想像できるでしょうか?

それら三次元物質宇宙全体に、増えてゆく地上組の人たちを、誰がおさめるのか?

ヨハネの黙示録20章をみると、小羊イエス・キリストと十四万四千人が千年の間、支配すると預言されている。では、その千年が終わり、御国をヤハウェに返した後は、誰がそれらの人たちをおさめることになるのでしょう?

ヨハネの黙示録22章5節をみると十四万四千人についてこのように描写されている。

f:id:remedy5:20211214233358j:image

夜はもはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神つまりヤハウェが彼ら(十四万四千人)を照らし、彼らは夜々限りなく支配する。

このように預言されている。要するに、元人間であった十四万四千人が、三次元物質宇宙全体に広がっていく人類を責任を持って夜々限りなく、平和のうちにおさめる。これが十四万四千人に与えられている使命。

もちろん十四万四千人は、そのような使命を果たしながらも、彼らには新たな報いや希望が永久に与えられてゆく。コリント人への第一の手紙13章13節には、

f:id:remedy5:20211214234142j:image

書いてある通りです。

信仰と希望と愛は、永久に続いていくという、これ聖書に書き記された神の約束である。

この聖書の言葉は、地上組にも当てはまる。でも、十四万四千人は、御座そのものに入ることも許されているわけだから、そのような報いが与えられた後も、さらなる希望が差し伸べられるというのは、言うまでもない。

どのような希望そして報いなのか

それは、その時に体験しないとわからない。

ただ、希望か報いに変わった時、さらなる希望が差し伸べられられるというこの循環が永遠に続くということ。

 

 

ついに!《完結編》(24)ー1

f:id:remedy5:20211214215100p:image

https://youtu.be/71jHWBbYFzM

 

今回はついに完結編です❗️

ヨハネの黙示録20章に注目していく。

先回の話で話しましたが、悪魔はもうすでに滅ぼされている。最終的に生き残る人々が、この時何人いるのかはわからないが、最後の誘惑に勝利した、知的な最終選別者たちが、死ぬことはない。もちろん不朽不滅の体が与えられるわけではないが、ヨハネの黙示録20章14節をみると、

f:id:remedy5:20211214220109j:image

死も黄泉も日の池に投げ込まれた

⬇️

これは、死そのものが完全になくなると言うこと

このことを行うのは、小羊イエス・キリストと十四万四千人の者たちである。因みにヨハネの黙示録20章10節をみると、

f:id:remedy5:20211214221949j:image

とあるが、火の池も火と硫黄の池も意味は同じ。つまり、これらの者たちが完全に滅ぼされてしまうということ。別の言い方では完全に存在がなくなる。ただ、ここをみると、

「そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは夜々限りなく日夜、苦しめられるのである。」

     ⬇️

どう言う意味なのか⁉️

「苦しめられる」と訳されているここで使われているギリシャ語は、幅広い意味のギリシャ語が使われている。このギリシャ語の特徴は、永久にというニュアンスを含むギリシャ語。なので、ここを「夜々限りなく日夜、苦しめられるのである」と訳されてしまっても仕方のないギリシャ語なんです。ただ、先程も述べたが、このギリシャ語には、他にも幾つかの意味がある。このギリシャ語には、「試金石でためす」というのが、本来の意味。この試金石というものを簡単に説明する。

金などの判定したい金属を試金石などにこすりつけるなどして、その条痕色をみて、その金属の純度や品質を判定するもの。試金石という言葉は、何かの判断基準という意味で使われることがある。真価が問われる。本質的な評価が判断されるという意味で、試金石となるという使われ方をすることが多く、聖書の用法としては、あるものの能力、価値、計画の成否などについて、評価が決まるという出来事を指して用いられる。

ですから、この語の字義的な意味は、「試金石でためす」という意味があるが、この後には他にも、こすりつける、叩きつける、ぶつける、なぐりつける、痛めつける、苦しめる、せめく、拷問といった幅広い意味も含む語である。

まだこの語には、永遠というニュアンスが含まれているために、「彼らは、夜々限りなく日夜、苦しめられる」と訳されてしまった。

ここは、本来は、文字通り、永久に苦しめられるという意味ではない。先ほど述べた試金石の用法で考えるならば、悪魔サタンの能力、価値、計画の成否などについて、それらが、完全に間違いであると評価され、決定したということ。それ故に、永久に存在がなくなるという、つまり、そのような滅びが決定的になったということ。

興味深いのが、ヨハネの黙示録20章14節をみると、「死と黄泉も硫黄の池に投げ込まれた」と書いてある。もし、この部分を「夜々限りなく日夜、苦しめられる」というふうに解釈するとしたら、死と黄泉の未来永劫日夜苦しめられる」という面白い意味になってしまうのではないか?

ですから、ここは、悪魔が永久に存在がなくなる。そのような滅びが決定したという解釈になる。この部分はきちんと説明しておきたい。

 

話を戻す。

小羊、イエス・キリストと十四万四千人は、最後の誘惑をクリアした地上組の人々のために、死も黄泉も永久に滅ぼすことによって、彼ら、つまり地上組の人たちにとって、死はもはや、敵ではなくなるということ。

 

《新しい天と新しい地へ》(23)「後編」

f:id:remedy5:20211205213128p:image

https://youtu.be/lkbjVg-vFn4

前回は千年間の統治期間に入り、ヨハネの黙示録20章4節後半で彼らは(十四万四千人)は生きかえってキリストと共に千年の間、支配したとある。要するに、これが5.6節で言われている「第一の復活」のことであるというところまで話すことができた。

今回は7節から10節の部分を一旦とばし、11節か

ら15節までの部分を朗読してみる。

f:id:remedy5:20211205213137p:image

11節から解説していく。
f:id:remedy5:20211205213100p:image

使徒ヨハネは千年間の統治期間のスタートの別の場面の幻をみる。千年間の統治期間のスタートの別の場面の幻です。ヨハネは大きな白い御座の幻を見ます。そして、そこにヤハウェがおられる様子を見る。それから天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなくなったと……聖書の中では、イザヤ書65章、ヨハネの黙示録21章、ペテロの第二の手紙3章で新しい天と新しい地について言及している。つまり、悪魔サタンが築きあげてきたものすべてが、ハルマゲドン後にはあとかたもなくなってしまったということ。そして次に

12節をみると

死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えたと……

ヨハネはこのような幻をみる。ここで大いなる者、そして小さき者とあるが、色んな解釈がある。一言で言うならば、どのような立場の人であってもということ。そのなかには、使徒行伝24章15節の聖句に書かれているように正しい者も正しくない者もいるということ。ここでいっている、正しい者、正しくない者の基準に関しては、前回の動画で説明してある。つまり、正しい者というのは、死ぬまでヤハウェの義の基準に従い、ヤハウェに選別されていて、尚且つ、知的な希望を持っている者たちのこと。例えば旧約聖書時代の義なる者と呼ばれている人たちの中で、誰が知的な希望を抱いていたのか?それはわからない。一世紀に事実上、キリスト教がおわり、この終末の期間に入るまでに亡くなったヤハウェから見た義なる者たちです。また大きな苦難までに神の義の基準に従いながらも何かしらの災害、あるいは、病気などで亡くなった方々、もちろん生前知的な希望を持っていた人たちです。正しい者には、そうした人々が含まれる。そして、ここでいっている正しくない者というのは、神の義の基準に従う機会のなかった人々のうちの、ヤハウェに記憶されている人々です。それが使徒行伝でいっている正しくない者ということ。

ヨハネの見た幻は、大いなる者も小さき者も共に御座の前に復活させられた時のことが描写されているわけです。

12節の中程をみると、

かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が

開かれた。これは命の書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれたと書いて書かれてあります。

実際に復活してきた人たちのために、かずかずの書物が開かれることになっている。ここでいうかずかずの書物に関しては、この時にならないと詳細はわからない。ただ、もう一つの書物と呼ばれているもの、これは命の書と呼ばれている。つまり、復活してきた人たちは、この書物に書かれてある事柄に従うならば、命を得ることになるでしょう。そして、仮に従いたくないと思われる人たちは、自由に自分の存在を無くしてもらうという選択をすることもできる。つまり、自由意思で決定すればいいということ。

13節を考える。意味深なことが書いてある。

f:id:remedy5:20211205220159p:image

この中を見ると、海そして死また黄泉(よみ)という3つのワードがでてくる。この海と訳されているギリシャ語は、文字通りの海を意味する語が使われている。海はその中にいる死人を出しと書かれてあるのは、海に関連して亡くなった死者のこと。その死人を出すといっている。死も黄泉(よみ)もその中にいる死人を出しと書いてある。これは先程の海に関連して亡くなった人以外のすべての死者を出すといっている。

では、なぜここでわざわざ海と死という2つのワードに分けてかいてあるのか?

実際、歴史を通じで海に関連した死者の数というのはどうなのか?海で亡くなった人、海に関連して亡くなれた人というと、色々考えられる。例えば海難事故、海難事故だけでも色んな海難事故があるわけです。普通に海に遊びにいって溺れて亡くなったり、レジャーでサメに襲われたり、また、タイタニック号のような事故もそうである。他にも色々考えられる。海で自殺した人も海に関連した死者ですよね?また海で戦死した人もそうです。陸にいた人でも、地震が起きて津波で流されて亡くなった人、これも海に関連した死者に含められるでしょう。また国によっては、海に埋葬されるというのもある。歴史を通じてどれだけあるのか?ということ。例えば国や地域によっては、住民のほとんどが海上で生活しているところも多い。海の上で仕事をしているという人なども含めると陸で生活している我々はあまり把握していないだけで、海上で生活している人々は、実は思っている以上に多い。ということは、必然的に海に関連して命を落とされる方の数も相当多くいるとかんがえられるのではないか?そう考えると、ここで海というワードが使われている理由が読み取れると思う。それ以外の死者の数も相当数いるというのはいうまでもありません。しかし、先程もいったように我々が知らない、つまり、把握していないだけで海に関連した死者の数はけして少なくない。

海はその中にいる死人を出し……というのは、歴史を通じてこれまで海に関連して亡くなった大勢の人々を出す、つまり、復活させるといっている。少し話を戻すが、ここでいっている海と死です。海と死というのは両方とも黄泉(よみ)が関係しているということ。では補足情報としてもう少し海について考えてみたいと思う。ここでいっている海と黄泉が関係しているという聖書的根拠をヨナ書からみてみる。

ヨナ書2章特に2節。ヨナ書を見るとわかりますが、ヨナは、魚に飲み込まれて3日間、魚、つまり、大魚の腹のなかにいたわけです。

2節の部分に書かれているように、ヨナは大魚に飲み込まれた時に、自分の死を予期し、ヤハウェにこう祈っている。

f:id:remedy5:20211206231120j:image

そして5節

水がわたしをめぐって魂にまでおよび……と書かれている。2節でわたしが陰府の腹の中から叫ぶと……

事実上ヨナはそのように祈った後、大魚の腹の中で亡くなったわけです。ここでヨナは大魚の腹の中で、なんとか生きていて、大魚の腹の中から、生還したのではなく、ヨナがたしかに大魚の腹の中で死んだと言える根拠です。

イエス・キリストが後に、マタイによる福音書12章39.40節で言われた言葉からもわかる。

f:id:remedy5:20211206232234j:image

エスは自分が処刑されてから、三日三晩の間、死んでいること、つまり、陰府のことですが、そのことをヨナが大魚に飲み込まれ、死んで三日三晩大魚の腹の中にいたことに例えてそれを預言者ヨナのしるしといっている。ですから逆に言えば、イエスが三日三晩死んでいたように、ヨナもたしかにその間死んでいたということ。

そして3日の後、10節にあるように、主は魚にお命じになったので、魚は、ヨナを陸に吐き出した。このことに関する細かな詳細は、ユダヤの伝承に書かれてある。

ただ、一つ言えることは、ヨナは確かにそのとき死んだということ。つまり、海の中で死んだわけです。それでヨナは、自分の死に場所である海と陰府を結びつけて話しているということ。つまり、ヨナは海に関連して死んだ者の一人になったということ。(聖書中で)

そして実際に大魚の腹の中で死んでいたヨナを、ヤハウェは復活させ、大魚の口から吐き出させた。要するに、海から死者を出したという預言的な実例を聖書中に残されたということ。

 

ヨハネの黙示録20章にはなしをもどす。

13節にかかれてあったように、歴史を通じて海に関連して命を落とされた方、大勢のそうした人々が復活してくるということをここではいっているということ。そして次に死も黄泉もその中にいる死人を出し……とあるこれは海以外の場所や様々な状況下で亡くなった人々も復活してくるといっている。

ここをまとめると、この13節は次のように解説するとわかりやすいかもしれない。

f:id:remedy5:20211206233849p:image

海と黄泉はその中の死人を出し、死と黄泉もその中にいる死人を出し……ということ。実際に外国語の聖書の中には、わかりやすいようにそのように意訳されている聖書もある。要するにここで言いたいことは、正しい者も正しくない者も例外なくヤハウェに記憶されている者たちが、復活してくるということ。でも中には、せっかく復活させられても、自分の命を自ら放棄する者も出てくることでしょう。ただもう一つ言っておく。過去にヤハウェからの裁きを受けた者たち、例えば、ノアの大洪水、ソドムとゴモラで滅ぼされた者たち、イエス・キリストを十字架の死においやった張本人たち。そういった者たちは当然復活してくることはないでしょう。

 

ヨハネの黙示録の前半部分に戻って20章5節を見てください。5節はどういう意味なのか?

復活は、千年間の統治期間が始まった直後に開始される。4節の後半からを見ると……そして5節で……となっている

⬇️

f:id:remedy5:20211205213111p:image

5節のそれ以外の死人の「それ以外の」というのは、誰と対比させて言っているのか?

4節後半の「彼ら」これは十四万四千人のことだが、それらの者たちは、この時点でもう既に不朽不滅の体を身につけている。つまり、この時点で、もう既に十四万四千人は、完全な者となって生まれ変わっているということ。それに対して、知的な選別者たち、要するに、ハルマゲドンを通過した知的な選別者たち、そしてそのあとに生まれてくるであろう子どもたち、また、復活してくる大勢の人たちは、ここの時点ではまだ完全ではない。では、それらの人々はいつ完全になるのか?

まずこの地上組の人々は、千年の期間をかけて、徐々に完全へと引き上げられていくということ。もちろん、自動的にそれらの人たちが、完全に近づいていくわけではない。このことはヨハネの黙示録22章1.2節に次のようにかかれてある。
f:id:remedy5:20211205213131p:image

f:id:remedy5:20211207000335j:image

つまり、ここに書かれてあるように、象徴的な意味で、命の水の川の両側にはえている木の実、12種の実として表されている神、ヤハウェ。そして小羊イエス・キリストともっと厳密に言うなら、十四万四千人から与えられるであろう身体的、精神的、霊的その他の命を完全性へと引き上げるための全ての備えです。その備えを定期的に取り入れ続けなければ自動的に完全性へと引き上げられ

ていくわけではない。でも、その備えを取り入れ続けていく者たちは、千年間の統治期間が終わろうとしている頃には、今では想像もつかないくらい完全性へと引き上げられていることでしょう。ただし、そのような備えを定期的に取り入れていたとしても、自動的に完全な人間になれるわけではない。完全な人間になるためには、結局はヤハウェに再創造されなければならない。そのことは、押さえておいてほしい。

地上組の人々は、千年間が終わった後に再創造されて、完全な人間に生まれ変わる。つまり、千年が終わるまではこの5節の表現を使うならば、ヤハウェの見地からすると、ある意味まだ死人。ですから、それ以外の死人は、千年の期間が終わるまで生きかえらなかったとかかれてある。十四万四千人はもうすでに新しく生まれ変わっているのに対して地上組の人たちは千年の木終わるまで新しく生まれ変わルコとはできない。つまり、ヤハウェの検知からすれば、まだ死人ということ。

 

話を戻す。千年の間、そこには悪魔はいない。

活動出来ないように閉じ込められていますから。

そしてどうしてもさ自分の存在を否定したいひと、そのような人は、その旨をヤハウェに伝えたらいいだけ。善良な人々に悪影響を及ぼすものはいない。それだけではない。6節の後半をみると、

f:id:remedy5:20211205213123p:image

彼ら=十四万四千人は神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配すると書かれてある。祭司というのは簡単に言うと、教育者です。要するにキリストと十四万四千人はヤハウェに代わって、地上組の人たちを教育していくわけです。ですから、これらのことを考えてみるとわかると思うが、はるの直後、つまり、千年間の統治期間が始まったすぐの時よりも、百年後、五百年後と経過し、そして999年後また999年目のあと1日で千年というその日。どうでしょう。先ほど述べた様々な要素を考えると、

⬇️

f:id:remedy5:20211205213116p:image

普通に考えたら心身共に完全体で、申し分のない状態。喜びや感謝であふれてくるでしょう。

だだ、7.8節をみると

⬇️
f:id:remedy5:20211205213106p:image

千年の期間がおわると、悪魔サタンは解放される。どうなるんでしょう?それらの人々が完全になった直後、悪魔サタンは地の四方にいる諸国民、ゴグ、マゴグを惑わし、戦いのために召集する。そして、その数は、海の砂のように多いとある。ここに出てくるゴグ、マゴグ。これは千年の間、完全な者へと引き上げられ、最後に完全な者に再創造された諸国民と書かれてありますが、そのような諸国民のある者たちです。つまり、ゴグ、マゴグというのは、一言で言うなら、その時に悪魔サタンに惑わされるものたちを表している。残念なことに、海の砂のような数のような人たちが、この時、悪魔に惑わされて、悪魔の側についてしまう。そして、それ以外のヤハウェの側にしっかりついているものたちに、戦いを挑んでくるんです。でも、もうこのときは、地上組の人々は戦う必要はありません。

9節後半をみると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽くした、つまり、小羊、イエス・キリストと十四万四千人による裁きの火が投下される。さらに10節をみると、彼らを惑わした悪魔が、火と硫黄との池に投げ込まれたと書かれているように、とうとう悪魔はここで完全に滅ぼされるということです。

でも、聖書の預言はこれで終わりではありません。十四万四千人には、まだ行わなければならないことがあります。

⬇️

f:id:remedy5:20211205213143p:image

それに伴って十四万四千人には、どんな使命が与えられているのでしょうか?もちろん指名だけではありません。十四万四千人には特別な報いそして希望が差し伸べられています。今の不完全な思考で想像するのは不可能です。そのとき、実際に体験しないと……ということです。

今回の解説はある箇所に関して、よそ様の団体様と同じような解釈のものもあります。しかし、ある箇所に関しては、全く違うもの。このことだけは言っておきたいとおもう。

では、次回いよいよ完結編です。